新学習指導要領「審議のまとめ」(案)を読み解く

新学習指導要領の中教審答申に向けて8月1日に示された「審議のまとめ」(案)を、安彦忠彦神奈川大学特別招聘教授と西川純上越教育大学教職大学院教授に読み解いてもらった。

何のため、誰のための教育課程か 教育の本質が逆転
神奈川大学 特別招聘教授 安彦忠彦

次期学習指導要領の内容を決める中央教育審議会の中間報告「審議のまとめ」案が、8月1日に公表された。2日の新聞等では、学校現場への具体化に資する条件整備を含む種々の手立てを求める声以外に、これといった批判的分析はなく、一般に関心をもたれるような小学校の英語科導入を中心に、高校の教科目の改廃やアクティブ・ラーニングの導入について、好意的なコメントがほとんどであった。

確かに案を見ると、「資質・能力」の育成中心で「内容」の詰め込みを避けるという改訂の趣旨により、評価も含めてこれまで以上にきめ細かく丁寧な記述がなされ、各方面からの要請にできるだけ応えてバランスをとっている。また新構想であるだけに説明が詳細で、分量的には前回の答申の倍ほどの分厚いものになっている。

しかし、結局は冒頭に掲げられた「社会に開かれた教育課程」というキーワードが、その基本的性格を規定している。この点についてほとんど誰も問題にしていないが、まさにこれこそが「教育」を考える際の最重要の視点である。このキーワードは、確かに「公教育」であれば「社会のため」といってもよい。しかし「私教育」も含めた場合、それでよいだろうか。「教育」一般は「人間らしい人間=人格を育てる」という個人的な一面がある。ところが、いつからか「国家・社会・地域のため」に役立つ「人材」を養成することが「教育」だということになり、大部分の日本人は「それで何がおかしいのか」と反問する時代になった。

けれども、ではその「国家・社会・地域」は何のためのものか、誰のためのものかと考えてほしい。個々の「国民のため」のものでなければならないであろう。どちらが主体なのか。国の審議会等の委員になると、このことをうっかり忘れて、すぐに「国家のため」という目線でものを言うようになりがちである。しかし、実は自由民主主義の「国家」は「国民のため」にある。

つまり「主体」は「国民」にあり、教育も教育基本法に従って「国家社会の形成者」として「主体形成」を行わねばならない。「国家社会の形成者」とは「国家・社会・地域のための人材」であるとともに、「国家社会のあり方を決める主権者=主体」でもあり、後者の方が重い意味をもつ。

現行の学習指導要領は「生きる力」という「主体」の側から構想されたが、今回は「社会のための教育課程」とされた。この違いは決定的だと思う。「教育」の本質の主と副とが逆転していることに気づくべきである。

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子どもたちの人生がかかっている その先は現場の仕事
上越教育大学教職大学院教授・学校教育学博士 西川純

8月1日に「次期学習指導要領改訂に向けたこれまでの審議のまとめ(案)」が発表された。答申までの最終コーナーに入ったという感がある。

平成26年11月20日に、当時の下村博文文科大臣が学習指導要領に関する諮問を出したときに、多くの人はアクティブ・ラーニングという言葉に初めて接し、それに驚いた。そして、その当時から「文部科学省はアクティブ・ラーニングという言葉を使うのをやめるそうだ」という噂を、何度もいろいろな人から聞いた。その情報源が文部科学省内部の人間だという人もいた。

死に直面した患者がどのような行動をとるかという研究をしたキューブラー・ロスの「悲嘆の五段階説」がある。第一段階は、その存在を否認し、たいしたことはないと無視する。第二段階は、怒りで攻撃的になる。第三段階は取り引き。第四段階は抑鬱。そして第五段階が受容である。

「アクティブ・ラーニングって何?」の最初の反応の次は、上記の「アクティブ・ラーニングはなくなるそうだ」「小学校、中学校で昔から行われている実践がアクティブ・ラーニングだ。だから、今のままでいい」という反応は第一段階である。しかし、それではすまないと知ると、「そんなことやれと言われてもできない」という第二段階に移行。そして、「ジグソー法やグループディスカッションを年間に何回かやればいいんでしょ」という第三段階に移行する。しかし、それが不可能となると抑鬱なり、その後に受容に至る。

諮問から2年弱の間、文部科学省はさまざまな媒体を通してアクティブ・ラーニングに関する情報を出している。行きつ戻りつしつつも、推進する立場は一貫している。今回の案で示されたように、人工知能が発達する子どもたちの生きる社会に対する危機感を持っているからだ。

文部科学省の学習指導要領が作成されれば、一段落である。長い時間をかけてアクティブ・ラーニングを受け入れる土壌を文部科学省は準備した。その先は現場の仕事だ。子どもたちの人生がかかっている。

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