【連載】飯田稔のすばらしき教員人生 91 学校不適応の10年間

■学校へ何をしに来てるの

先輩教員のTさんから、声をかけられた。「飯田君、学校へ毎日何をしにきているの」とのおたずねだ。どんな意図の問いか分からぬまま、「ハイ、授業をしにきています」と答えた。そうしたら冷笑気味に、「あれで、授業だと思っているの」と言うではないか。

C大学附属小は、教員同士の仲はよかった。それと同時に、力のない者は自ら去ればいいとの雰囲気があった。赴任して1年もたっていない筆者に向けての、Tさんの問いもC大附小の教員文化の一側面か。ここでヘナヘナしてしまったら、敗北ではないか。筆者の心のなかには、反発心が湧いてきた。こんな言葉に負けてたまるかと…。それにしても、この教員文化にいかに同化していったらよいか。

■ストーブ談義に加わると

職員室の石炭ストーブを囲んで、Sさん、Kさん、Hさん、Tさんが話し込んでいる。4人とも、筆者の教育実習生(教生)の頃の指導教官である。「飯田君、ストーブが温かいよ」と、冬の日に声をかけてくれたので、話の仲間に加わった。

「近頃の卒業生は、授業が下手だね」と話している。近頃の卒業生とは教生のことかと思った筆者は、「私もそう思います。私のクラスの教生は…」と言った途端に、どうだろう。「教生のことではないよ。飯田君の授業について、話し合っていたのさ」と、4人はニヤニヤしているでないか。これでは、職員室に行くのも嫌になる。筆者はだんだんと職員室に行かない教員になった。放課後は、自分の教室に引きこもりがちになっていく。これでいいかだ。

■10年間は学校不適応だった

いま振り返ると、筆者の10年間はC大附小に不適応であったか。なぜ、転出しなかったかと問われれば、この学校では、好きな研究実践ができたからだ。これは貴重。それがあったから、残りの18年間(28年間在勤)は魚が水を得たように活躍できたのだ。

石の上にも三年、苦節十年とも言うでないか。不適応10年の間は、酒席好きで野暮天なのに通人ぶる校長がいたからかとも思う。校長の在り方は、学校教員文化を左右する。筆者が〝校長の在り方〟に関心を抱くようになったのは、この頃(20歳代)からだ。

(元公立小学校長、千葉経済大学短期大学部名誉教授)

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