(円卓)中高生も論文を書こう

日本大学文理学部教授 小笠原 喜康

中高生でも論文が必要だ、と私は思っている。自分で課題を見つけ、さまざまな方法で調べ、自分の主張をつくり、それを論文の形にまとめ、プレゼンする。こうしたことが、当たり前になってほしい。

というのも、新しい学習指導要領、というより、これから本格始動する教育改革の真骨頂は、「探究力」の一語に尽きるように思われるからである。文科省は、当初の「アクティブ・ラーニング」を「主体的・対話的で深い学び」と言い換えた。これを身体的活動学習と誤解する人たちがいたからである。

もちろん言うまでもなくアクティブ・ラーニングは、主体的で能動的な学びということである。だが、この主体的・対話的で深い学びは、内容と方法とが切り離せない、全ての学びに共通していることに気付いている人は少ない。

これは、単なる学びの方法ではない。自分で課題を見つけて探究することは、そこに主体的に関わることである。知識は、その中で、新たに組み立てられ創造される。

本来、知識を学ぶというのは、字面で覚えることではない。そこに関わることである。知識は食べ物ではない。だから、単に体の外からとり入れることはできない。知識とは自分の関わり方の別名である。

このように考えると、主体的・対話的で深い学びは、決して単なる学びの方法ではないことが分かる。これが本来の学びであり、知識である。たとえそれが基礎基本の知識であっても、探究的、関わり的に学ばなくては、根無し草の、すぐに剥げ落ちる知識にしかならない。

この基本的な当たり前のことを忘れると、主体的・対話的で深い学びは、ただの形だけのものになるだろう。教師がテーマを与え、調べ方を指示し、おざなりの論文やプレゼンをさせることになる。アクティブではないアクティブ・ラーニングである。

論文執筆は探究学習において、重要なキーである。探究は形ではない。試行錯誤の自分の知の構築である。問い・調べ・書く―という三つが、グルグルと回り続けなくてはならない。論文は完成が始まりである。全ての学び、全ての知識に終わりはない。近年、すでに中高一貫校を中心に卒論を課題とする学校が増えつつある。しかし、この当たり前のことを忘れないでいただきたい。