(円卓)用語の一人歩き

筑波大学教授・教育学域長 吉田 武男

わが国では、人の不安や悩みをあおる用語を中心に、複雑な背景を持つ教育現象に対して、分かりやすい鍵となる用語がしばしば見つけ出され、それが多くの人々の腑(ふ)に落ちると、教育界に留まらず、一気に社会全体にまで爆発的に広がってしまう。

確かに、このような用語による説明を通して、複雑で不可解な問題が一時的に不安な人々を納得させて落ち着かせてくれる。その意味では、発見された用語は一定の存在意義を有している。

しかし、複雑に変化する人間や社会の問題に対して、その状況で発見された用語は、広まりの中で一人歩きし出すと、使う側の欲望や願望によって拡大解釈され、時にはねじ曲げられて変質していくことになる。

それ故、発見された状況から切り離された用語は、変化した教育現場において一人歩きして、絶対的な思考の枠組みとして受け入れられ続けるならば、多面的・多角的な視点からの思考を制限・停止させかねない。

事例として、神戸市の小学校で最近起きた教師間の問題を取り上げてみる。多くのマスコミ報道では、「教員いじめ」というタイトルで、この問題を「いじめ」として捉えている。しかし、報道の内容を見る限り、この問題は、明らかに恐喝、脅迫、暴行、器物破損、名誉毀損(きそん)、侮辱などの「犯罪」ではないか。

そもそも、これまでの実態の変化に追い付けず、定義の変更を余儀なくされてきたような「いじめ」という情的な用語にしがみついている限り、解決する思考は有効に働かない。

しかし、少し視点を転換して、「犯罪」という知的な法の枠組みで捉えるなら、解決策は簡単に見える。もちろん、教育現場の人間関係的な問題は全て法で解決されるべきではないが、今後の価値多様化のグローバル社会を想定するなら、ケースによっては法の価値基準も重要である。

教育現場や教育学の分野において、例えば「モンスターペアレント」「スクールカースト・学級カースト」「学級崩壊」「不登校」「自己実現」「自己肯定感」「自己効力感」「ハラスメント」などの用語がいまも時代・社会・文化を超えて一人歩きしているが、「いじめ」の用語と同様に、教育関係者は、そろそろ自分の思考停止状態に気付いてほしい。