(円卓)人のために行動できるように

国立特別支援教育総合研究所理事長 宍戸 和成

「そのごみ、拾って捨ててくれるといいんだけどなあ」

私が勤めていた聾(ろう)学校では、言葉の指導が課題だった。このことは、今でも、変わらないと思う。聞こえにくいことから生じる言語習得の難しさである。

ある年の研究会を控えていた時のことである。小学部低学年の子供と廊下を歩いていた。すると、廊下の隅っこに紙屑が落ちていた。お客様がそれを見掛けたら、どう思うだろう。そこで子供に投げ掛けた言葉が標記のものである。

なぜ、こんな言葉掛けをしたか。当時は、さまざまな機会を見付けて子供に身近な言葉を身に付けさせたいと思っていた。授業に関わらず、休み時間も、給食の時間も、さりげなく言葉に関わる指導をしていた。

ところが、「消しゴムを拾ってあげて」「床にこぼれた水を拭いてください」などと言っても、「私の消しゴムではありません」「僕がこぼしたのではありません」などと、子供からの答えが返ってくることがしばしばだった。

答えとしては、おかしくない。事実としてもその通りかもしれない。でも、人間関係を取りもつための言葉として、これでいいのかと思った。いずれ社会に出て行って、周りの人と上手く関わって生きていってほしい。そのためには、字面だけの理解ではなく、その言葉を発した人の思いも推測し、人のために行動できるようになってほしいと思った。

命令調に「拾いなさい」、「拭きなさい」と言うのも可能だが、それでは、自分から主体的に行ったことにはならない。自ら、考え、判断し、行動する、そんな子供になってほしいと思っていた。耳が不自由であろうが、教育目標は障害のない子と同じである。ただ、そこに至るための方法や時間が違うだけだ。

時が過ぎ、機器の開発も進んだ。聞こえにくい子にとって、電話を利用するのが難しかった時代から、ファクシミリに推移し、今では、テレビ電話や携帯メールでコミュニケーションできる時代だ。手話でも、文章でも意思疎通ができる。こんな時代になっても、昔、気にしていた気配りや相手の気持ちを察することは、人との関わりを良好に保つ上で欠かせない。

障害の有無に関わらず、地道に相互の理解を深めていくことが、これからの共生社会の形成には必要だと思う。