(円卓)一人一人が参加し続ける授業に

国立教育政策研究所教育課程調査官 笠井 健一

学習指導要領の前文に「一人一人の児童(生徒)が、自分のよさや可能性を認識するとともに、あらゆる他者を価値ある存在として尊重し、多様な人々と協働しながら様々な社会的変化の乗り越え、豊かな人生を切り拓き、持続可能な社会の創り手となる」と示されている。この文章を基に「個別最適な学び」と「協働的な学び」というキーワードが、中教審の答申に示された。

それぞれの学びは一体的に捉えることの必要性が示されている。意味するところは、一人一人の価値ある存在である子供たちが協働的に学ぶことの大切さを示したものである。

算数・数学は、分かる・分からない、できる・できない、正しい・間違いがはっきりするという教科特性を持つ。ある子供が間違った発言をしたとき、教師は、子供たちもその発言がおかしい・間違いだと分かる。だが初めて学ぶ子供にとって分からない・間違うのは当たり前である。

私も統計の勉強をしているが、初めて聞く用語はよく分からない。恥ずかしがらずにどんどん質問するようにしている。分からないことは恥ではない。分からずにそのままでいることが悪いことだ。質問することで講演されている方から感謝されることもある。質問のおかげで、何を説明したらよいのか分かったというのだ。

教室も同じである。分からない、間違った子供が学習の中心になる。子供にどのように説明したらよいのか、子供たちみんなで考える。式だけで抽象的に説明して正解を出した子供の発言だけで授業が進むなんてあり得ない。私もそういう授業をしてきたので大きな顔で言えるわけではない。これからの教師は、「教室は間違うところだ」を地でいく授業をしてほしい。

「その子はどう考えてこういう答えを出したのか考えてみよう」と促すことが大切だ。自分以外のことに関心を持たせ、その子の立場に立って考えさせる。分断ではなく共感の授業の始まりだ。

授業としての場で教師と子供という関係で書いたが、学校という場で管理職と教師という関係でも同じことが言える。初めて出合ったことに対して、教師が間違いをしてしまうのは当たり前だ。1人1台タブレットをどのように使うか、分からない、時には間違ってしまう、それを叱るのではなく、みんなでよい方法を考える、そんな学校でありたい。