(円卓)「表現力」再考―社会・文化的つながりを考えて

放送大学客員教授 梅澤 実

教育実践において、思考力、表現力、判断力といった言葉が、「育成」「付ける」といった言葉を伴って使われるときは注意が必要であろう。

そうした使い方は、「力」に関わると考える知識や技術を抽出し、それを「力」の構成要素として順次習得させることで「育成」できるといったイメージを生成しかねないからだ。それは、学習内容と学習活動の社会・文化的つながりを考慮しない危険性を孕(はら)む。「書く(表現)」を例に考えてみよう。

「書く」行為の社会・文化的つながりとは、書き手に伝えたいものがあり、伝えたい相手が存在することに始まる。そして、どう書けば相手に自分の思いや考えを明確に伝えられるかを考え続けることで「書く」行為は熟達する。それは、人として成長することでもある。

書くことを指導するとき、教師は熟達化を目指し歩み続ける子どもたちの未来の姿から、学習指導要領に示された「書くこと」の指導内容が、その姿にどのようにつながっているかを見つめ直すことである。その上で、子どもたちに「書く」ことの社会・文化的つながりが意識できる学習活動を創出することである。

そうした学習活動では、子どもたちは書く目的に即して書かれたものの効果を期待する。それは書くことの価値が考えられるということである。その期待は読み手の反応と相まって、自分の書いたものに対する自己評価の観点とするだろう。

社会・文化的つながりを考えない学習活動は、結局は受け身の学習となり、知識・技術は詰め込まれることになる。詰め込まれた知識・技術は、学習後に子どもたちが出合うさまざまな状況に合わせ、改変できるものとはならない。さらに、「書く」は、「読む」学習と深く結び付いていることも留意したい。「読む」活動の読み手は、書くときに頭の中で想定される読み手につながる。

国語教育の大家である西尾実(1889~1979。法政大学教授、国立国語研究所初代所長などを歴任)が語った次の言葉を今一度教育実践の道しるべとしたい。

「小・中学校の教育は本来人間形成の教育でなくてはならないのに、戦後のそれは具体的な人間の知識・技術ではなく、抽象的な知識・技術に傾いている」(『国語教育学の構想』筑摩書房、1951)。

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