【連載】いつからいつまで特別支援 第4回 「学園」でイメージアップを(その②)

臨床発達心理士 池田啓史

最近、「学園」を校名とした特別支援学校が増えてきましたが、先行的な施策は、平成8年4月開校の東京都立南大沢学園養護学校でした。

当時、都教委の担当課であった私たちは、知的障がいの小学部、中学部、高等部の新しい学校に軽度の障がい者の職業教育のための職業学科を設置するという施策を考えました。一般就労100%を目指し、産業技術科(ペーパークラフトコースとファッションデザインコース)30人定員で入学選抜を実施しました。校舎は八王子市ベッドタウンの住宅地に周囲の景観に合わせて、色調や外観にも配慮した建築としました。周辺の住民は、新規のホテルと思っていた人たちもいたようです。

開設準備担当で初代校長も務めた清野佶成氏は、校章や制服や体育着にも斬新なアイデアを取り入れ、制服は周辺の中学校の憧れとなった時期もありました。清野氏の意向を受けて私たちは、校名から養護学校を外そうという考えに至りました。

私は、昭和63年当時、まだ有楽町にあった都教委に、指導主事として入りました。同時に任された職務が、その年から実施された「心身障害児理解教育の推進」事業でした。まだまだ、社会的な周知が進んでいなかった盲・ろう・養護学校と近隣の小・中学校との交流教育を中心に都民への障がい児教育の理解啓発を推進しようという事業で、年限がなく、総額年間7千万円という一大事業でした。

この事業は平成15年の居住地校交流、16年の副籍制度の提言に至るまで、15年間に渡って継続された異例の施策でした。私も副参事時代、予算担当課のヒヤリングで、「この事業の達成目標を示せ」との追及を受けましたが、「東京都民に普通に障がい児理解が浸透するまでです」と譲らない姿勢を貫きました。

しかしながら、この施策をもってしても盲・ろう学校はともかく、養護学校が市民権を得たという実感には、まだまだという意識はぬぐえませんでした。
そんな時にわれわれは、今まで理解教育の推進に頑張ってきた、が、頑張り続けることも大事だが、思い切って、イメージアップを図ることも考えてもよいのではないか。いつしか、そんな共通した結論が湧き上がってきたように思います。

衆議一決、東京都立南大沢学園の名称で文部省(当時)に打診しましたが、返答は学校教育法第一条に抵触するため、認可できない…でした。担当校長、清野氏とわれわれは、やむなく国の指導を受け入れましたが、学校の校門のプレートには、「東京都立南大沢学園養護学校」としました。そして、通称は「南大沢学園」としました。

翌年、知的障がい部門と肢体不自由部門を併置した新たな養護学校として開校した東京都立あきる野学園養護学校は、学校のプレートも要覧も各種パンフレットも「あきる野学園」として、居直りのスタートを切りました。初代校長野瀬康英氏も英断の傑物でした。