【連載】いつからいつまで特別支援 第6回 「LD問題の25年」~発達障がいのこれまで(その①)

臨床発達心理士 池田啓史

今回からは、特別支援教育への移行の契機となった発達障がい問題の25年を振り返りたいと思います。

平成2年2月11日、東京のイイノホールでLDがテーマの読売新聞社主催のシンポジウムが開かれました。イイノホールが満員になりました。そして、シンポジウムのまとめとして、全国から来た9つの団体によって、全国LD児親の会が結成されます。東京から参加したのは、国分寺市の「けやき」、それから、世田谷区の「ニンジン村」、この2団体に、あと7団体が参加して、全国LD児親の会が結成されました。今年で25年になります。

5年前の22年2月28日に横浜で結成20周年記念大会がありました。20年前と比べると100人位のホールで小規模な集会となりました。それでも、檀上には上野一彦元東京学芸大学教授、文部科学省の石塚調査官を始め、LD問題に関わる東西随一の人たちが並んでいました。主催の親の会の保護者の皆さんはもはや世代交代で、結成の頃私が関わった親御さんのお子さんたちは、もう30代の後半から40代にさしかかっていました。それだけ時代が経ったのかなという実感を覚えました。

このLD児の親の会の結成によって、LD問題というのは目覚ましい勢いで進んだと思います。おそらく、これだけ短時間の間に新しく登場した障がいがきちんと制度的に認定されて施策ができたという例は、それまでにはなっかたと思います。当時、LDという単語は一般的でなく、小・中学校の教師の中には、LDの勉強会はレーザーディスクを見るのか、みたいに言われたこともあったほどです。

実はLDは、Learning Disabilities(ラーニング・ディスアビリティーズ)という教育用語です。医療関係者はDisorders(ディスオーダーズ)=能力障がい。それから、Disfunction(ディスファンクション)=機能障がいというような言い方をしていました。

そのような、歴史的な経緯はありましたが、LD児親の会は、障がい名としてLDを認めてほしいと国に要求しました。当時の文部科学省は、アルファベットは障がい名に馴染まないということで認定しませんでした。そのため、東京都教育委員会でも非常に苦労して、一時期「教科学習等に特異な困難性を示す児童生徒」といった表記をしました。

ところが実態としてLDというワードが独り歩きをし始め、LD等の課題が「燎原の火」の如く広がり、平成7年に東京都では、いち早く、LD(学習障がい)の資料を作ることになりました。この資料を作るにあたって、LD児親の会が果たした役割は、それまでとは大きく異なっていました。LD児親の会の最大の特徴は要求型ではなくて、協働型だったのです。

行政に対して要求をつきつけるだけではなくて、自分たちで施策を作るためにどうしたらいいかということを、前向きに取り組んだのがLD児親の会です。当時、私は東京都教育庁指導部で直接の担当者の立場にいましたが、親の会の方と定期的に話し合いをしました。その席にはいつも上野教授も同席されていました。保護者、研究者、行政が共同歩調で施策を作り上げていった初めての例となりました。

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