【連載】幼小接続スタートカリキュラム 10 詰め込み式を「遊び」が反撃

聖徳大学短期大学部保育科准教授 金玟志

 

韓国での「ヌリ課程」の背景として、教育課程で重視されてきたリテラシー教育を看過できません。

■韓国の伝統社会から見たリテラシー教育

朝鮮時代の実学者の1人、李徳茂(1741~93年)は、『士小節』で次のように述べています。

「文字を教える際、多く教えるだけではなく、その資質に合わせたい。二百字学べる者は百字だけを教え、常に十分な精神と力量を保つようにすると、飽きずに良い成果を残せる。賢い子が少量だけ読み、暗唱するのが良いとはいえないが、愚鈍な子に多く読ませるのは、まるで貧弱な馬に重い荷物を持たせるのと同じである。遠くまで行けるはずがない。子どもに文字を教える際は、煩わしく話すのは禁物である。すべからく、その子の資質や年齢に合わせて詳細、簡略に解するのが望ましい」

李は、力量や年齢を考慮して子ども自身が消化できる学習量の配慮が大切と説いています。
当時、日本の寺子屋に当たる朝鮮時代の私塾、書堂では、初めに千字文を中心に教えました。教師の訓長が漢字を読み上げて意味を説き明かしたものを暗唱する「講読」、書物の漢詩を朗読し自ら詩作する「製述」、漢字を正しく書く「習字」の3本立てで行っていました。

しかし、「製述」では書堂の規模や訓長の力量で頻度に差があったのを考慮すると、「講読」や「習字」が基本的だったのが分かります。
李が指摘したように、書堂では、訓長は学び手である子どもの才量に合わせ、講読する書物を定め、成果が出るような教えとして、子どもが繰り返し朗読する教育方法が主でした。

当時の学びの仕方は、育ちの環境の重要さを説いた諺にも比喩されています。「書堂の犬三年で風月を詠む(門前の小僧習わぬ経を読む)」

朝鮮時代に学びの結果を生み出す「講読」や「習字」中心の教育は、時代の変遷にもかかわらず、幼児教育の現場でも長年重視されたリテラシー教育に通底するものがあるといえます。

■「遊ぶ」に過剰反応

韓国伝統社会では「師匠の影も踏んではならない」ほど、教わる側が教える側に尊敬の眼差しがありました。それは、わが子に対し「大きくなって立派な人になるように」と、当時の親が教育に抱く期待から生まれた先生への尊敬を代弁する言葉といえます。立派な人となるためには学びを施す側に対し、敬う気持ちを持つことが教わる側の姿勢であるように捉えていたのでしょう。教育を通して誰もが立派な人になるのを期待していたに違いありません。

韓国の親は「学校に行ったら先生の話をよく聞きなさい」「先生の言葉に従いしっかり勉強しなさい」とわが子を学校に送り出したものです。「立派になる」ためには「よく聞く」「従い勉強する」ことが必須要素でした。また教える側の先生の言葉が絶対的であることが分かります。そのためには、教わる側の子どもの思いや考えは重要ではなく、「遊ぶ」のは立派な人になるの妨げる要因になっていたのです。

「遊ぶ」を韓国語辞典で調べると、(1)楽しいことをして時間を過ごす・戯れる(2)何もすることなくぶらぶらする・失業する(3)勤めを(短期間・短時間)休む(4)(勝る手に)振る舞うなどと説明されています。ほとんどが、社会構成員としての基本的素養に問題があるとされる場合、「遊ぶ」という言葉が用いられているといえます。
韓国社会では「遊ぶ」ことは人をだめにする悪い誘惑のようなものであり、学びの過程を揺さぶる価値のないものとして解釈された文化が存在していたかもしれません。

これらの価値観は、私立幼稚園や保育所を選定する基準として、私塾として盛んになっている韓国の学院の活性化を助長していたのかもしれません。そのため、学院のような私塾の拡散化や子どもに対する間違った親の教育熱心さを真正面から覆すような「遊びを通した学び」が幼児期において重要であるとした「ヌリ課程」の導入は、これまで行われた韓国社会の早期教育や詰め込み式に対する大きな反撃だったといえます。

■学びを成就するリテラシー教育の見直し

2000年以後、韓国は質の高い教育を目指し大々的な教育課程の改革と改定を繰り返してきました。新教育課程の導入により、「全人教育」に向け幼小接続を意識した教育課程や教科書の見直しは、その後の学びの過程である大学入試制度や、子どもの教育に携わる教員養成制度においてまで全般的な変動をもたらす結果となっています。いまだ過渡期であるのを考慮すると、制度や形式などで拍車をかけるだけではなく、学び手である子ども側の真の学びとして必要なものは何かを吟味しなければなりません。

これまで、韓国教育社会で根強くあった読み書きを中心としたリテラシー教育は、現教育現場では詰め込み式教育の先駆的な方法として解釈され、遊びを通した体験型教育に相反するものとして扱われてきました。
しかし、リテラシーとは、単に「正しく読んだり書いたりできる識字率」との意味合いだけでなく「何らかの表現されたものを適切に理解し、それらを改めて適材適所で表現する」という二次的な意味がある点を見過ごしてはなりません。

後者の特徴は、まさに「ヌリ課程」で掲げた、人の話した内容を理解して動くことへの楽しさや自分の思いや考えを正しく相手に伝える「意思疎通」領域、感情表現がさまざまであることを学び多様な文化に触れ、人とともに生きることを考える「社会関係」領域において、遊びを通した教育が志向する基本的な力であることに目を向けて、リテラシー教育の見直しを通して形式的な「幼児主導型」学習に陥らないよう歯止めをかけることが必要なのかもしれません。

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