【連載】「いじめ問題」の解剖学 第12回 いじめ被害者の世界①

立教大学文学部教授 北澤毅

 自殺念慮を抱かない社会に

平成25年に「いじめ防止対策推進法」が成立した。その中で「いじめ」は「当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているもの」と定義されている(第二条)。

被害者が苦痛を感じる「いじめ」をなくせば「いじめ問題」は解決する、というのが本法律の考え方であり、これこそが社会の支配的な見解である。
それに対し本連載は、「いじめはなくならない。しかし、『いじめ問題』を解決する方法はある」という問題意識から出発している。

「いじめはなくならない」といった発言には抵抗を覚えるかもしれない。そこには、犯罪や差別をなくすべきだとする考え方と共通する社会意識が働いている。

その考え方が間違っているわけではない。「ほとんどの人が消滅を願ってやまない社会現象がなくならないのはなぜか」を考える必要があるのだ。
そうすれば、特定のカテゴリー(犯罪、精神障害、人種、民族カテゴリーなど)を排除して集団秩序が維持されるという、人間社会に普遍的に見られるメカニズムに気づくだろう。

「いじめ」はあっていいのではない。防止対策を徹底してもいじめはなくならないだろうというのだ。

問題はそれだけではない。被害者の心身の苦痛が、いじめ判断の絶対的規準として語られているが、そもそも他者との共存が前提であるこの世界で、まったく苦痛を感じないで生きるなど可能だろうか。
それは現実を見ようとしない夢物語ではないか。苦痛への対処法を身につける方が現実的な課題だ。

「だからといって何もしないよりはましではないか」といった反論が聞こえてきそうだ。そこでとどまるのは大人の自己満足にすぎず、問題の解決にはならない。
その先を考え、別のアプローチを検討する必要があるのだ。

すでに論じてきたように、考えられる1つのアプローチが、「いじめはなくならないかもしれない。しかし、『いじめを苦に自殺をする』という、現代日本社会に特有の社会現象を食い止める方法はあるはずだ、というものである。

そしてここまで、「いじめ問題」の解決にとっては回り道とも思えるやり方で、成立経緯を丁寧に論じてきた。
ここでもう一度確認しておきたいのは、いじめと自殺は不可逆的な因果関係にあるのではない。「いじめ」と「自殺」との間には、次のようなプロセスが介在している。

第一段階は、自分の経験を「けんかやふざけ」ではなく「いじめ」と解釈するかどうか。そして第二段階は、自分の「いじめ」経験を「死」と結びつけて考えるかどうか。

この2つのプロセスを経由して、「いじめ苦」を動機とした「自死」を考えるかだ。
このようにいうと、いじめられた子どもの主観的現実(=苦痛)が重要という考え方とどこが違うのかと思うかもしれない。ここには決定的な違いがある。

子ども(他者)が苦痛を感じているかどうかは「本人の主観」の問題であり、他者には分からない(偶然に気づく場合はあるが、原理的には他者の内面は分からないという意味)。一方、ある種の苦痛と自殺を結びつけて考えるかどうかは「文化の問題」だ。
現代のいじめ論では、この違いがまったく理解されていないように思われる。だから、共感的に理解すれば、子どもの苦しみに気づくはずだといった語り方が横行し、泥沼化する。

私たちの課題は、その時々の子どもの「内面を理解する」のではなく、苦痛を感じたときに自殺念慮を抱いたりしない社会(=思考の制度)をつくることだ。
実際、「私はいじめられている」と思っている子どもたちは、どのような主観的現実を生きているのだろうか。それを理解し、子ども世界への働きかけ方を考える必要がある。

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