【連載】「いじめ問題」の解剖学 第13回 いじめ被害者の世界②

立教大学文学部教授 北澤毅

気づかなかったの問題性

「いじめ防止対策推進法」の根幹にある「いじめ防止」という考え方のもつ問題点について論じた。

それに続いて今回は、本法律を支えているいじめの定義から導かれる「他者の苦痛やいじめのサインに気づくべきだ」という考え方の問題点を論じたい。

この考え方に支配されているがゆえに、「いじめ自殺」に遭遇した社会は、死ぬほどの苦しみに気づけなかった教師を非難し、遺族である保護者は、「なぜ気づいてあげられなかったのか」と自責の念にかられることになる。

しかし、この考え方は実に危うい。なぜなら、透視術などもち合わせていない私たちには、その時々の他者の気持ちに気づける保証などどこにもないからだ。

しかし同時に、たとえ他者の気持ちに気づけなかったとしてもうろたえる必要などなく、子どもを「いじめ自殺」から救う方法は別の形で存在するということが重要だ。

そのためにもまずは、その時々の他者の内面に対して、私たちはどのように向き合っているのかという問題について考えてみる必要がある。

〇「苦痛」とは何か

苦痛とは、本人に固有の感覚であるということに異論はないだろう。では、他者の苦痛に対して私たちはいかに対処しているだろうか。

感覚や感情は本人の主観的現実なのだから本人の表明が決定的に重要だと思うだろう。実際、「歯が痛い」と子どもが顔をしかめながら訴えれば、私たちは子どもの訴えを受け入れ「どうしたの」と尋ねるはずだ。

しかし例えば、「お腹が痛いから学校を休みたい」と子どもが訴えても、親にとって「仮病」を確信できる場合があるし、殺人容疑者が「殺すつもりはなかった」とどれほど必死に訴えても受け入れてもらえないことがある。

感覚や意志は本人の内面の問題であると想定されているにもかかわらず、私たちは、「内面」についての本人の表明を無条件で受け入れているわけではないということだ。

つまり、「苦痛」という本人の感覚(=主観的現実)を重視して「いじめ」を定義しても、いじめ事実認定の際、本人の感覚は必ずしも尊重されるとは限らないということである。

社会(教師や親をはじめとした他者)は、その時々の状況に応じて、本人と他者との関係性や出来事の行為系列に配意しながら事実認定をしているのである。

これこそが、私たちが実践している、他者の主観への独特の対処法なのである。

その意味で、「いじめ」事実はもとより、他者の「意志」や「感覚」なども、その場その場で達成される社会的なものであり、個人の内面に秘められた何かなどとは異なる性格のものなのである。

〇「主観」の重要性

さらに、他者の主観をめぐっては、もう一つ重要な問題がある。それは、私たちが他者の気持ちをどう捉えようとも、本人が「いじめられて苦しい」と思えば、「自殺への回路」が開かれる恐れがあるということだ。

では、行為者の主観をありのままには知り得ない私たちは無力だということになるのだろうか。

確かに、今現在、他者が「いじめ苦」を感じているかどうかを私たちが確実に知る方法はない。しかし、すでに論じたように、「いじめ苦↓自殺」という思考回路は社会的に作られた一種の規範であり、私秘的で接近不可能なものということではない。

つまり、いつ誰がいじめられて苦しいと思うかは私たちには分からないけれども、「いじめられて苦しいから死にたい」と思わなくて良い世界を作ることはできるはずだということである。

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