【連載】「いじめ問題」の解剖学 第14回 いじめ被害者の世界③

立教大学文学部教授 北澤 毅

 

私のいじめられ日記

中井久夫の『いじめの政治学』(『アリアドネからの糸』所収、みすず書房、1997、2~23ページ)ほどに、「いじめ世界」のメカニズムを説得的に論じている作品はないかもしれない。学級という小集団を権力社会として捉え、その閉塞社会の中で標的にされた被害者が、「孤立化」「無力化」「透明化」させられ、自尊心を失っていく過程を鮮やかに描き出している。

これは、子ども社会に限らず、人間社会に普遍的に観察される秩序維持メカニズムともいえるが、そのことが理解できるなら、学級経営にも大いに役立つはずだ。さらに注目したいのは、筆者自身の小学生時代のいじめられた経験を振り返り、被害者にとっての自衛策について論じているところだ。

「自分を乖離しいじめられている自分をひとごとのように外から眺める能力」をもてたこと、さらには、自分と同じようにいじめられていた疎開児童と「ペア感覚」をもてたこと、の重要性に言及している。つまり、いじめ被害者にとって、「自己を相対化する」ことと「共感できる友人を得る」こととが、孤立感から自らを解放し生き延びるための重要な戦略になりえるということだ。

とはいえ、中井のいじめ論は、被害者が追い詰められていくメカニズムを論じる点に主眼があり、被害者の主観的世界を描き出すのを狙いとしているわけではない。

それに対して本論は、中井のいじめ論を引き受けつつも、それとは異なる問題関心から被害者の主観的世界を明らかにするのをねらいとしている。なぜなら、被害者になることで強いられる独特の世界から自らを解放し、生き延びるための選択肢を多様化するのを目指しているからである。これが『私のいじめられ日記』を取りあげる理由である。

 〇「いじめ」に気づく時

『私のいじめられ日記』(土屋守・怜、青弓社、1993)は、当時、中学校1年生だった土屋怜が、小学校時代からの仲良し3人組にいじめられた経験を克明につづるとともに、いじめ問題に適切に対応しない担任教師や学校を痛烈に批判する内容となっている。

本書は、刊行前に朝日新聞で紹介されるなど注目されたが(読売新聞や毎日新聞は刊行後の反響を受けて紹介している)、刊行後も、続編ともいえる『500人のいじめられ日記』(土屋守、青弓社、1994)が刊行されるなど大きな反響を呼ぶことになる。

本書は1章と2章を土屋怜本人が執筆し、4章の「母の記録」以外の残りを、父である土屋守が執筆する構成になっている。ここで分析の対象とするのは、2章「私のいじめられ日記」(26~134ページ)である。

2章は2部構成からなり、1.[いじめられた内容]では、1991年6月頃から92年2月10日までの「いじめられ経験」が、現在からの回想というスタイルで書かれている。そして[日記]と題された2.では、1992年2月11日から4月15日までのおよそ2カ月間の出来事が、日付けが刻まれた日記形式で詳細に描かれている。

まず最初に注目したいのは、怜の「いじめられ経験」は、親友から「あなたは友人3人にいじめられている」と忠告されたことから始まっている(52~53ページ)。

怜は「ショックで涙がとまらなかった」が、「ずっと考えてみれば、私が今までされてきたことは『いじめ』以外の何物でない。…中略…。そのことに初めて気付いた」(53ページ)と書いている。

そうだとすれば、本人が「いじめ」と気付いていなかった過去の経験は「いじめ」といえるのだろうかという、きわめて素朴かつ重大な疑問がわいてくる。この問題をどのように考えたらよいだろうか。

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