【連載】魅力ある教師となるために 第5回 子どもを広い観点で見て育てる

多賀歴史研究所長 多賀譲冶

 
 数学の授業を見たあと担当の教師に質問をした。「A君は分数の計算が全くできないようだが」。中学校2年生のA君は、分数の基本が全く分かっていなかった。

 教師の口から「困ったものだ」とか「基本からやり直しだね」というような言葉が出るかと思いきや、にっこり笑ったその先生は「彼は写真が上手だからね」と私に言った。さらに「写真を追求していけば、彼にとって必要な数学をやがてマスターするだろう」とも続けた。

 2週間ほど前に文化祭が開かれ、彼の写真は好評を博していたのだった。研修期間中に体験したフランスの学校での話だ。

 「Bは数学が苦手」「同じく化学もよろしくない」。すると美術の教師が「Bのデッサン力にはよいものがある」。それを聞いていたB君の生活担当教師は「歴史には、とても興味があるようだ」と述べ、その後、B君をどのように伸ばしていくか、その具体的な手だてが会議で話し合われた。こちらはニューヨークで見た光景。

 仏米どちらの学校も、日本のようなクラス担任制ではない。

 1人の教師が十数人の生徒の学習と生活について責任を持ち、面倒をみている。感心するのは、個々の生徒に関する情報を、担当する全ての教師が共有しているという点である。

 人には優れた面も足りない面もあるが、一面からだけではなく、全体を捉え、一個の人間として子どもたちを見ていくという姿勢である。ポートフォリオと呼ばれる成績表には、教科ごとの評価とともに、担当者から保護者に対して子どもの学習状況や指導目標が必ず添えられていた。

 「数学ができないからだめ」「国語ができないからだめ」と、とかく担当する教科の成績だけで子どもを判断しがちな日本の教育現場とは、大きく異なる。こうした教育基盤があるからこそ、冒頭のような教師の言葉が出てきたのだ。名前だけがポートフォリオの日本とは異なる。

 話は変わる。毎年9月になると活動への参加が鈍くなる。ボーイスカウトでの話だ。偏差値に自信がないという、受験年齢のスカウトたちである。教師の過敏な受験指導や親の焦り、それに進学塾の都合が原動力となっている。

 結論から先に言おう。塾でカリカリ暗記して偏差値を上げることより、山へ行ったり、火おこしして炊飯したり、湖面をカヌーで漕ぎまくっていたりすることの方が、大人になってから、はるかに役立ち、血となり肉となる。

 ちなみに仏米どちらの国もボーイスカウトは盛んで、受験生ですらキャンプや登山に参加している。長い受験勉強期間中の1週間や2週間ぐらい、勉強をしなくても大勢に影響はなく、活動に意義があると思っているからだ。

 成績という観点だけで見るならば、偏差値や点数は確かによい指標になる。しかも、受験対策の強い味方だ。

 しかし、受験は教育の目標ではない。よい学校に入り、よい就職をするための成績という明治以来の旧弊が見え隠れする社会で、子どもをトータルに見ていくことの意義はまことに大きい。数字に振り回され、一喜一憂することはもうやめよう。

関連記事