【連載】「いじめ問題」の解剖学 第16回 いじめ被害者の世界⑤

立教大学文学部 北澤毅


 

私のいじめられ日記(3)

〇「孤独」とは何か

人は、どのようなときに「孤独」を感じるだろうか。身寄りがなく一人暮らしをしていれば、孤独なのだろうか。もちろんそういう場合もあるだろうが、必ずしも物理的条件の問題ではない。

むしろ重要なのはカテゴリー上の問題、つまり、「相談できる相手が誰もいない」という現実に直面したとき、人は孤独を感じるのではないか。しかも、苦しみや悩みを相談できる相手はカテゴリー的に制限されており、誰でも良いわけではない。

たとえば、現代日本の中学生にとってもっとも身近なカテゴリー関係は、親-子、教師-生徒、友人-友人といえるが、同時に、このカテゴリー関係は規範的でもあるということが重要だ。

ここで規範的とは、誰にとって誰が適切な相談相手となるかはカテゴリー関係によって決まっているということだ。それゆえ、クラスのなかの親しい友人と思っていた相手が、実は自分をいじめている加害者だと知れば、その時点で、当の人物は友人を失い、孤立状態に追い詰められる恐れがある。周囲に同級生はたくさんいるかもしれないが、それら同級生は相談できるような友人ではないからだ。

伶の場合、相談できる親友は別のクラスにいる。しかし、クラスごとに空間的にも時間的にも隔てられており、会うことさえ困難だ。だから、「今日は移動教室が多くて、Aちゃんは来なかった。それにAちゃんだってクラスの友達がいるし、付き合いも大切だ。私はもういやだ。いやだ!いやだ!いやだ!苦しい!苦しい!悲しい!悲しい!悲しい。あっちは三人だもん。私は一人だもん。一人だもん。クラスの人は何も知らないし無理ない」と、<クラスのなかの孤独>を強く意識することになる。

ここで注目したいのは、「クラスの人は何も知らないし無理ない」と書いていることだ。これに関連する重要な記述が、いじめられているのに気づいた次の日である2月14日の日記冒頭に書かれている。

「朝、まず、Bちゃんに『私は今までいじめられていたし、これから仲良くしてお弁当いっしょに食べてもいい?』と聞いた。BちゃんもXさん、Yさん、Zさんがいじめなんて信じられないようで、でも、今まで私が何かされていたことは知っているようで、『つっちゃん、あれって冗談ぽく見えたで』と言った」。

伶は、Bちゃんに助けを求めるが、Bちゃんは「冗談ぽく見えたで」と語ったという。苦痛を生み出す相互行為が他者には冗談に見えている、ということだ。ここに「いじめ問題」の厄介な特徴の1つがあらわれているように思われる。

誰かに殴られ、口から血がにじむという事態から「痛み」は容易に観察できるだろうが、プロレスごっこのような冗談とも遊びとも見える相互行為の蓄積の結果としての苦しみは、他者にはなかなか気づいてもらえない。

そもそも、一つ一つは断片的で些細なこととしか見えないような出来事の連続的蓄積としていじめ被害を経験しているのだとすれば、連続性を経験しているのは被害者本人のみでしかなく、自分の感じている苦痛は、他者には理解してもらえないと思い、孤立感を深めていったとしても不思議ではない。

だからこそ、「クラスの人は何も知らないし無理ない」と、ほとんど諦念の表明ともとれる言葉を吐露することになったのではないか。

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