【連載】いつからいつまで特別支援 第14回「個別指導計画」誕生秘話(その④)

臨床心理学士 池田敬史

 

IEPの考え方が、日本に次第に導入されはじめました。IEP研究会などの研究組織ができて、安田生命社会事業団などでも、IEPの講座を次々と開催した時代でした。

当然、養護学校(当時)や心身障害学級(当時)の現場の先生の中にも、米国にならった個別教育計画を実践する方が増えてきました。

ところが、アメリカと日本の決定的な違いは、アメリカには学習指導要領がない点です。ナショナルカリキュラムがありません。州や大きな都市(日本での政令指定都市)、小さいところでも、カウンティーというのでしょうか、日本でいうと郡の単位のようなところで教育計画ができているので、州ごとに、就学年齢や指導内容などが違っていました。

ただ、連邦法に基づくIEPだけは、全米50州が作らなければいけないということになりました。すると、例えば、1人の障害児がいて、その子の課題を教師がいくつか考え、それで保護者と相談して、IEP委員会を作ります。そのIEP委員会の中で、その子の教育内容と指導プログラムを決めて、ようやくゴーサインが出るわけです。

そうすると、学年進行ではあるのですが、子どもによって、学習している内容が各自で違うといった状況が見られたのでした。

IEPの研究団体においても、あくまでも、個を基準としたプログラム開発に力を入れていました。しかし、国が定める学習指導要領においては、この手法はかなりかけ離れた趣きがあり、わが国の学習指導要領の下では馴染まないだろうというのが、当時、都教委にいる私たちの共通した考え方でした。

そこで、教育庁指導部の重点的な教育課題研究事業であった「教育開発委員会」というプロジェクトとして、3年がかりで研究開発し、東京型の「個別指導計画」を作るという構想を打ち立てました。

一番苦労したのは、全都の学校や教師に理解・協力を促すためのコンセプトづくりでした。いま、なぜ個別指導計画なのか。やはり学校というのはグループがあって、学級・学年集団がまずあって、そこを基準に習熟度別グループがあって、基本的にみんなで学ぶところだという風潮が厳然としてありました。そのため、個別化するということに関しての、大変手ごわい抵抗感も当時はありました。

それで、当時、私が所属していた都教委の指導部心身障害教育指導課には、指導主事仲間が、主任をのぞいて7人いました。その7人の指導主事仲間で何とかこのコンセプトを作らなければいけないという思いで、ブレインストーミングをしました。都庁の中では次々と仕事が地底から湧き上がるようにやってきます。役所にいたのではとてもできないので、課長にお願いして時間をもらうことにしました。

「課長、私たちに3時間ください」「3時間もどうするんだ」「個別指導計画のコンセプトを考えるブレインストーミングをしてきます」「どこでやるんだ」「隣のワシントンホテルのラウンジです。すみませんけど、お時間ください」

当時の宮本紀夫課長は異例の許可をしてくださいました。

私たちは、電話番の1人を置いて、ワシントンホテルに行き、紅茶1杯、コーヒー1杯を飲みながら3時間、喧喧諤諤、侃侃諤諤、フローチャートやイラスト図をかいたり、きっと企業の新製品開発とは、こんなミーティングなのだろうと思いながら、有意義な時を得ました。

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