【連載】「いじめ問題」の解剖学 第18回 いじめ被害者の世界⑦

立教大学文学部教授 北澤毅

 

恥辱としての経験

もうだいぶ前になるが、いじめ問題をテーマとした『わたしたちの教科書』というテレビドラマがあった(平成19年4月12日から6月28日まで全12話)。

学級内のいじめられっ子として3人の女子生徒が登場するが、彼女たちにはいじめ苦から逃れるために自殺を試みるという共通点がある。と同時に、それぞれ異なった理由から自殺を思いとどまることになるが、その理由の中に、このドラマの重要なメッセージが込められている。

詳しく述べることはできないが、ここでは、自殺を二度試みている山田加寿子のせりふに注目したい。彼女は、二度とも弁護士である積木珠子に助けられるが、その珠子との会話の中で、「いじめられるのは恥ずかしい」「誰かに気付かれるのが怖かった。誰にも気付かれないのも怖かった」と語っている。

いじめられていることは恥ずかしい(↓知られたくない)。そして、いじめられていることは苦しい(↓気付いてほしい)。

いじめられている子供たちを、このジレンマ状況に追い詰めるものは何なのだろうか。そもそも、なぜ「恥ずかしい」と感じさせられてしまうのだろうか。

例えば作田は、「拒否であろうと受容であろうと、われわれは他人の一種特別の注視のもとにおかれた時に恥じる」(作田啓一『恥の文化再考』筑摩書房、1967、10ページ)と論じている。

作田にならうなら、無視とはマイナスの注視であり、攻撃はプラスの注視といえるだろう。どちらも、周囲から標的にされているのに変わりはない。そのことが、いじめられる側(=注視される側)に羞恥心を生み出すことになる。しかし、なぜ注視されることが恥ずかしさを引き起こすのか。

この問題については、社会学者ゴフマンの自己論が示唆的である。ゴフマンは、自己こそが世俗化された近代社会における唯一神聖な存在であると繰り返し強調している。

例えば私たちの多くは、大都市の電車の中では互いに無関心を装っているはずだ。それは他者の存在に無関心ということではなく、無関心を装うことで互いの「神聖なる自己」を保とうとしているということだ。

だとすれば、いじめとは神聖なる自己への露骨な侵害であり、他者の尊厳を徹底してつぶす行為といえるだろう。だからこそ、いじめられる側は傷つき恥辱を受けることになる。

それにしても、いじめられる子供は、なぜ「恥ずかしさ」の中に封じ込められてしまうのだろうか。

おそらく理由の一つは、「被害者側にも責任の一端がある(=いじめられる側にも理由がある)」という認識が社会の中に存在しており、被害者もまたそうした認識を引き受けているからではないのか。

もしそうだとすれば、いじめる側にはいじめるだけの「正当な理由」があることになり、容易に自分たちの行為をエスカレートさせていくかもしれない。そして、同じ文化を生きるいじめられる側も、いじめられる原因が自分にあるのを認めるざるを得なくなる。だからこそ、加害者を告発するどころか、誰にも相談できず、自分の境遇を甘受することで苦痛と屈辱の中に封じ込められていくのではないか。

こうして、加害者と被害者との非対称的な構図が作り出され、被害者に孤立と沈黙を強いるのだとすれば、これは実に巧妙な罠である。

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