【連載】「いじめ問題」の解剖学 第19回 いじめ被害者の世界⑧

立教大学文学部教授 北澤毅

 

いじめられる原因?

いじめ被害者に孤立と沈黙を強いる罠は、被害者から自分の経験を語る権利をも剥奪していく。この問題を考えるために、「いじめ自殺」をした中学校3年生女子の遺書を読むことから始めたい。

「私は学校で友だちから無視されています。原因はよくわかりません。ただわかることは、私が悪いらしいのです。だから、あやまってみました。でもゆるしてくれてはいないようです。なんだかわけがわからなくなってきました。そのうち学校に行くのもおもしろくなくなってきて、いまでは起きるのも気が重くなってきました。そんな自分がとてもいやになりました。本当にごめんなさい」(子供のしあわせ編集部編『いじめ・自殺・遺書』草土社、1995:80)。

この遺書のなかの2点に注目したい。第1は、「私が悪いらしいのです。だから、あやまってみました」と書いていることだ。

「私が悪いらしいのです」という推定表現は何を意味するだろうか。いじめられる理由が自分には分からないが、加害者側が「いじめられる原因はあなたにある」というのを陰に陽につきつけた結果としての戸惑いと不安の表出として読めるのではないか。だから彼女は、加害者側に謝罪までしている。

こうした「いじめ」の構造がどれほど普遍性を持つかは不明だが、この遺書は、「いじめられる側にこそ原因がある」という思考が、加害者ばかりか被害者をも含めた子供の世界に根深く存在しているのを示唆している。

この厄介な問題については、最近の調査データをもとに本連載の中で論じる予定でいる。無視できない重い課題である。

そしてもう一点は、被害者が「学校に行くのもおもしろくなくなってきて」いる自分を嫌悪していることだ。学校に行くのを当然と思っているからこそ行けない自分を嫌悪してしまうわけだが、問題はそれだけではない。

日本の10代の子供たちにとって、学校以外の居場所が制度的にも実質的にもほとんど存在していないとすれば、学校からの逃避は居場所を失うのを意味する。

つまり、いじめられることで学校(学級)という居場所を剥奪されるばかりか、そこから逃れようとしてもどこにも行き場がないという、いわば二重の意味での居場所喪失にさらされることになる。

それゆえに、身動きができない。

もちろん、この困難から脱出する一つの方法が不登校であるのは、誰でも思いつく。しかし問題は、「学校に行かなくてもよい」という助言はどのタイミングで伝えれば効果的なのかということだ。

親でさえ、自分の子供がいじめられて死ぬほど苦しんでいるのに気づかない場合があるとすれば(鎌田慧『せめてあのとき一言でも』草思社、1996)、「行かなくても良い」という語りかけが可能となるタイミングを知るのは難しいのではないか。

しかも、困難はそれだけではない。たとえ子供の苦しみに気づいたとしても、学歴が大きな意味を持つ現代日本社会において、不登校を選択することは、保護者にとっても子供にとっても容易ではない。

こうした困難を踏まえたうえで、では学校に行き続ける子供たちに対して、重要な他者の1人である教師に何ができるだろうか。

次回から、いじめ問題への対処法について、さまざまな視点から論じていきたいと思う。

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