【連載】いつからいつまで特別支援 第19回「個別指導計画」誕生秘話(その⑨)

臨床心理学士 池田敬史

 

「個別指導計画」、それは、学校を開くことから始まる。

「個別指導計画」のプロジェクトが完遂した翌年、私は都庁第二庁舎の29階から30階の学務部に異動しました。東京都教育庁は教育委員会の事務局として、施策や行政の課題業務のグレードがより高い順に階数が上から下に降りてくることになっています。30階から27階が教育庁のフロアでした。

その30階に総務部とともに置かれた、学務部に副参事(主任指導主事)として配属になりました。それまでの指導部は主に学校に対して教育課程や指導内容・方法について、国が定めた学習指導要領に沿って、東京都内の公立学校の教育の充実と児童生徒の生活や学習に関わる施策を作り、教職員への啓発を主としていました。

学務部は指導部がソフト面とすると、まさにハード面を担う部署でした。即ち、学校を作り管理運営するのが主たる役割ということです。

その翌年に開校する予定で着々と準備が進行していた学校が、8年後に第3代目の校長として赴任することになる「あきる野学園」でした。あきる野学園があきる野市とともに特別支援教育のモデル地区を担うことになったのは、この連載の冒頭で述べた通りですが、自分自身がその学校づくりの部署に着任することになろうとは、考えてもいませんでした。
今でこそ、複数の障がい種別を並置した特別支援学校は一般化しましたが、当初は、東京都では、最後の養護学校となる計画でした。国の養護学校教育の義務制施行(昭和54年)から17年が経過し、どんなに障がいが重くても、どこに住んでいても、義務教育が受けられるようになっていました。

しかし、首都東京であっても、いわゆる「へき地」といわれる地域はありました。まず、伊豆諸島の島々、最も近い、大島から船で25時間かかる小笠原諸島(母島は小笠原本島の父島からさらに4時間)。そして、埼玉、山梨、神奈川などとの境にある多摩地域です。あきる野市は、多摩地域でも西多摩と称される町村を含む地域にありました。

当時、この地域に在住する障がい児は通学に困難を極めていました。スクールバスで片道2時間、通学が困難なため、やむを得ず、「訪問教育」とし、教師が自宅に出向いて指導することもありました。こうした5つの市と2つの町、1つの村を学区域とし、養護学校を作る計画が立てられました。しかし、児童生徒の人数を勘案すると、知的障がい、肢体不自由の2つの学校は必要ないであろうとの判断により、知肢並置校のあきる野学園が建設されることになりました。

ところが、いざ計画が示されると、開校により転校することになった村山養護学校の保護者から反対ののろしが上がることになってしまいました。

村山養護学校はもともと、隣接する重症心身障害児施設である社会福祉法人に入所している未就学児童の教育保障を目的として、法人の土地に建てられた経緯がありました。常時、医療を要する子供はもちろん、通院や治療に至便な環境から遠く離れた、あきる野学園に転学するのをよしとしない多くの保護者の反対運動という障壁ができていました。私には、そのためのアクションプログラムを考える仕事が待ち受けていました。

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