【連載】新たな教育への提言 第9回 「おぼえるとわかる」の違い

(株)THINKERS代表取締役 山内学

 

佐伯胖著の『学びの構造』を読んだ。1975年、私が生まれた年に出版された本だ。題名から1971年刊の『甘えの構造』に類したと推測されるが、両著とも現代まで読み継がれている。本には「自発的な学び」「おぼえるからわかるへ」「ティーチング・マシン」「科学教育」などのトピックが並ぶ。これらの項目は、「アクティブ・ラーニング」「探究学習」「eラーニング」「STEM教育」といった現代の文脈に置き換えられる。40年以上経っても、教育の今日的課題は変わっていない。

ただ、昔と今で大きく違うものがある。それはインターネットに代表されるテクノロジーであり、この技術革新は、メディアとコミュニケーションのあり方を変えてしまった。紙とペンが主役だったオフィスは、いつしかWi—Fiとノートパソコンの時代になった。変わっていないのは教室の中だ。

もちろん、社会の状況をキャッチアップしようという教育界の動きはあるし、大いに歓迎したい。ただ、単にテクノロジーを導入すればそれでいいという訳ではない。肝心なのは学び方であり、その中身だろう。

先ほどの「学びの構造」の中で、「おぼえるからわかるへ」という箇所が印象的だった。「おぼえる」とは「わすれてしまう」ことであり、「わかる」とは「わすれない」ことだと著者は言う。「地球は丸い」というのを例に挙げているが、知識と経験が一致することで、「わかる」状態になる。

学校現場で、各教科について一番「わかっている」のは教師だろう。わかっているからこそ、その場の雰囲気や児童生徒の状況に応じて「おしえる」ことができる。日々そうした現場に立たれている先生方には敬意を表したい。

一方、教えられた側が「まなんでいるか」という問題が残る。いくら教師がすばらしい「おしえ」を説いたところで、受ける側が受け入れなければ、あるいは「おぼえる」だけであれば、「わかる」ことにはならない。「わかる」ためには、生徒本人の知識と経験の一致が必要になる。

ここにアクティブ・ラーニングと探究学習の価値が認められる。ラーニング・ピラミッドによれば、人に教えること自体に高い学習効果がある。これらに共通するのはアウトプットだ。熱心な先生なら、自分で各単元を探究し、生徒が「わかる」ように教える。日々アウトプットを繰り返している教師自身が一番学べる、という訳だ。

せっかく最良の学びを教師自身が体験しているなら、それを児童生徒に体験させてあげることはできないか。1対30の講義形式をクラス全員がやるとなると30回は必要だ。とても現実的ではない。教室で行うには、グループに分けるなどの工夫が必要だろう。

ここにテクノロジーが活用できる可能性がある。発言は集団の時間を一時的に占有してしまう。これを同期コミュニケーションと呼ぶ。またその場にいる人しか参加できない。他のグループで素晴らしい学びがあっても、そこには参加できない。

FacebookやLINEは、非同期コミュニケーションだ。時間差を許容し、同じ場所にいなくてもよい。非同期ゆえの限界はあるが、それ以上に広がる可能性とメリットもある。その一つが「学校を超えた学び合い」だ。次回、この可能性を探ってみたい。

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