【連載】「いじめ問題」の解剖学 第21回 いじめと教師②

立教大学文学部教授 北澤毅

 

内なる差別意識との闘い

昨年11月11日の中日新聞記事に目を奪われた。見出しは「いじめ『被害者にも原因』が6割 大津市が小中生調査」である。記事本文は次のように始まっている。

「大津市が市立小中学校で実施したいじめに関するアンケートで、『いじめられる人にも原因がある』と答えた児童生徒が全体の6割を占めたことが分かった」。

平成24年に社会問題化した滋賀県の「大津いじめ自殺事件」を記憶している人は多いだろう。その大津市内の小・中学生を対象とした調査で得られた結果であるだけに、報道も注目し、記事にしたと思われる。

詳しい調査結果は、「平成28年度 いじめについてのアンケート【調査結果報告書】」という名前で、同市のホームページに公開されている。その48ページを見ると、小学生の61.5%、中学生の59.7%が「いじめられる人にも原因がある」と回答しているのが分かる。しかし一方、「どんな理由があっても、いじめは絶対にいけない」と答えている児童生徒は94%を超えている。

とすれば、「いじめは絶対にいけない。でも、いじめられる人にも原因がある」と考える同市内の小・中学生が半数以上存在するといえそうだ。この結果をどう捉えたらよいだろうか。

先を急ぐ前に、この問題を考えるための補助線として、愛媛県松山市内の成人を対象として14年に実施された調査結果を紹介しよう。それによると、大人もまた「いじめられる側にも責任がある」と回答した人が61%であったという(竹川郁雄、2006、『いじめ現象の再検討』法律文化社)。

「いじめ」が社会問題化してからおよそ30年、「いじめられる側に落ち度はない」という語りは、マスメディアや教育現場で繰り返し強調されてきた。しかし紹介した調査結果は、子供ばかりか大人もまた、被害者の無垢性を必ずしも信じていないというのをはっきりと示している。なぜ、こうした社会意識は根強く存在し続けているのだろうか。

「いじめられる人にも原因がある」という考え方は、異質なものを排除しようとする差別意識と通底する。異質なものを排除することで「異質でない私たち」を確認し社会がまとまる。これは、社会秩序を維持する根源的なメカニズムである。

犯罪や差別など、誰もが無くなれば良いと願っている社会現象が、歴史上、存在しなかった社会はない。いやむしろ、犯罪や差別は、社会が存在するための不可欠な要素であるというのが、文化人類学や社会学が主張してきた重い命題である。

ただし、誤解の無いように急いで補足するなら、だから犯罪や差別は存在しても仕方がないということではない。そうではなく、なぜ社会の存立にとって犯罪や差別は不可欠の条件であり続けてきたのかを理解することなしに、犯罪や差別といった重い問題に立ち向かうことなどできないということだ。

「いじめはいけない」と主張するのは誰にでもできる。しかし、そうした規範的知識を知るだけでは差別もいじめもなくならないのを、冒頭で紹介した調査結果が示している。

それゆえ、教師をはじめとした社会が本気で状況を変えたいと思うなら、規範的知識という安全地帯から飛び出し、「いじめられる人にも原因がある」という考え方をすることで異質な他者を無自覚のうちに排除し続ける児童生徒たちの内なる差別意識に揺さぶりをかける必要がある。

その方法はさまざまにあるが、本連載では論じることができない(諸般の事情により、今回が最終回となる)。もちろん、そうしたからといってうまくいくとは限らないが、問題解決を志向するとは、不透明な未来に賭けることでもある。この種のリスクを引き受ける覚悟があるかどうかが試されているのは子供というより、むしろ教師であり、大人たちなのである。(おわり)

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