【連載】いつからいつまで特別支援 第20回「個別指導計画」誕生秘話(その10)

臨床心理学士 池田敬史

■「個別指導計画」は、学校と医療、福祉との協働へ

東京都では、どんなに障がいの重篤な子供たちにも、学校教育が受けられる制度が整っていました。私はその責任者という立場にもありました。主任を務めた東京都就学相談室では、30人のスタッフがその任に当たっていました。

当時、通学が困難な子供たちのためにスクールバスを配車しました。スクールバスに1人で乗車させるには、まだ未成熟な子供には、保護者が付き添うという名目で交通費も支給していました。そうした条件を整備しても、なお保護者の付き添いなしでは、登下校はもちろん、授業中も保護者が付き添う、もしくは近くにいていつでも駆けつける用意をして待機する、といった子供たちがいました。特別支援教育時代、ノーマライゼーション社会の現在もまだ課題とされている「医療的ケア児」の問題でした。

具体的には、常時、酸素吸入が必要な子、痰を自らきれないために吸引行為が必要な子、口腔からの食事の摂取が困難なため経管栄養補給が必要な子、等々です。これらの行為は「医療行為」とされ、医師法、保健師助産師看護婦法(現在は看護師)で医師の指示により、看護師が行う行為、もしくは保護者が行う行為(親族法による)で学校の教員が行うことはできませんでした。私が指導主事として最初に任された課題の一つがこの医療的ケアでした。

東京都では、医師の訓練指導を受けた教員が看護師とともに、医療的ケアができる制度を作り上げてきました。ただし、それは、習熟した教師が教育活動の一環として行うという積極的なものではなく、万が一、事故や過失で当該の子供に被害が及ぶようなことがあっても、刑事責任には問われないといった、「免責」行為と位置付けていました。

あきる野市にあるあきる野学園が迎える村山養護学校には、こうした子供たちが多く在籍していました。当時、文部省の教科調査官であった西川公司氏(現放送大学教授)をして、「日本一障がいの重い子供たちがいる学校」と言わしめた学校でした。

この問題の解決は、あきる野学園の近くに障がい児の専門病院があればよい、という方法以外には、保護者を納得させる策は見つかりません。そこで私たちは、村山養護学校に隣接する社会福祉法人「鶴風会 東京小児療育病院」と交渉を重ね、あきる野学園の校内に「診療所」を設置するという案を考え出しました。あきる野市とその周辺には、障がい児の専門病院がない、また一般の小児病院も数が限られていることなどについて、西多摩医師会、福祉保健局の担当部署などと協力し、学校の玄関の脇の保健室を仕切り、そこに地元の地名から「上代継診療所」を設置することを決めました。

この施策の決定は、教育長と福祉保健局長のトップ会談で決まりました。私たちは、また新たなスタンダードを東京から発信することになりました。村山養護学校からの転校生も揃い、平成9年4月、東京都立あきる野学園養護学校は開校しました。全国初の学校内診療所と開校に合わせて、東京都で全校児童生徒の「個別指導計画」を作成した初めての「特別支援学校」となりました。

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