【連載】主体的、対話的で深い学びに向けた学級経営 第1回 集団づくりなくして学びなし

上越教育大学大学院教授 赤坂真二

 

今日も電話が鳴ります。1件目は、都市部の千人規模の大きな小学校、2件目は、離島の小規模小学校です。どちらも「学校が荒れて困っているので研修に来てほしい」という依頼です。

学校が荒れているというのは、学級崩壊のような状況にあるクラスの割合が高いということです。小学校ばかりではありません。近年多いのは、学区内の小学校が荒れていて回復しないまま中学校に進学してくるため、授業が成り立たない学級があり、何とかしたいとの依頼です。

小・中学校でいえば、地域や学校規模に関係なくそうした状況になっているようです。先生方が気づき、なんとかしようと動き出している学校はまだ救いがあります。

問題は、学校内の複数のクラスが荒れて病休になる先生が出ているにもかかわらず、管理職や学級担任外の先生が傷口に絆創膏を貼るような対応をしているケースです。一方で、組織としては、学力向上に傾斜した取り組みにひたすら力を入れている実態が少なからずあることです。

もちろん学力向上に取り組むのは必要なことです。しかし、なぜ授業改善ばかりなのでしょうか。あまりにも短絡的な戦略ではないかなと思います。

パソコンのアプリケーションソフトだけ高性能にしても、それを起動するOSが低機能だったらアプリが動きません。アプリが高性能になるほど、それを動かすOSにも相応の性能が求められます。授業改善ばかりやっている学校を見ると、ずいぶん無理を子供たちにやらせているなと思います。

かつて新人教師を育てる際に「よい授業をすればよい学級が育つ」とよく言われました。これが嘘だとは思いません。大方の子供たちが授業という土俵に乗ってくれる場合には、一定の真実を示していると思います。よい授業ができれば、より良い集団が形成され、一層、高次の授業が展開されるでしょう。

しかし、子供たちが教師の話を聞かずに、勝手に立ち歩いたり私語をしたりしている状況では、まず、子供たちを授業という土俵に上げることから始めなくてなりません。

学習の基盤になる集団が機能していない状況で、子供たちが主体的に学ぶでしょうか。対話をするでしょうか。まして深く学ぶでしょうか。

主体的・対話的で深い学びとは、かなり高性能なアプリです。それ相応の集団が必要となってくるのです。