【連載】学校の「あたりまえ」を考え直す 1 集団秩序の本体は何なのか

明治大学准教授 内藤朝雄

 

私たちは長いあいだ、学校で行われていることを「あたりまえ」と思ってきた。疑いようのないものとして、学校を受け入れてきた。

だが、教育という大義名分のもと、学校はひどく残酷で理不尽な場所になっていないだろうか。理不尽なこと、残酷なことがいつまでも続くのは、人がそれを「あたりまえ」と思うからだ。それがあたりまえでなくなると、理不尽さ、残酷さがはっきり見えてくる。逆にあたりまえであるうちは、どんなひどいことも、「ひどい」と感じられない。歴史を振り返ってみると、このことがよくわかる。

学校とは、どのようなところか。学校の「あたりまえ」の秩序は、どのように成り立っているのか。こんなあたりまえのことをなぜ問題にするのかと疑問に思うようなことを、もういちど考え直してみる必要がある。そこから、今まで目の前にあっても見えていなかった問題が見えてくる。

学校はあらゆる生活(人が生きることすべて)を囲い込んで学校のものにしようとする。学校は水も漏らさぬ細かさで集団生活を押しつけて、人間という材料から「生徒らしい生徒」をつくりだそうとする。そして、かつての軍隊がそうだったように、社会のなかの別の社会になっている。

これまで「あたりまえ」とされてきた学校の仕組みを、距離を置いて観察してみよう。学校では、これまで何の縁もなかった同年齢の人々をひとまとめにし(学年制度)、朝から夕方まで1つの部屋に集めて移動を禁じて(学級制度)、強制収容する(実質的には強制収容制度になっている義務教育制度)。

この大枠を基礎として、学校は接触密度と対人影響を最大限にするよう、細かい強制の仕組みを張りめぐらす。それは、生徒が全人的に関わり合わないではすまされぬよう、個が群れから自由に距離をとることがないよう、互いのあらゆる気分や振る舞いが互いの運命を左右するよう、考え抜かれ、緻密に張りめぐらされている。

たとえば、個人の学習進度を無視した集団一斉学習。一つひとつの所作が儀式的に大げさで、たとえ満腹でも、食べたくない嫌悪食物でも、ストーカー的なしつこさで完食を強いる集団一斉摂食(給食指導)。

そして班活動。次から次へとふりかかる学校行事(およびそのための練習)。さまざまな儀式。しばしば強制加入の部活動、朝礼、学級会、連帯責任、雑用割り当て、掃除などの不払い労働(職業を選べず強制的にタダ働きさせられる人を奴隷という)。生活指導(教員が私生活に因縁をつけて介入できる人格支配)。

態度や意欲の成績評価(生徒のこころを良い悪いと決めつけることができる評価)。入試の内申制度(教員との人間関係をしくじると運命がどう転ぶかわからないなかで、卑屈な精神を滋養する)。市民的な自由はなにがなんでも許さないといわんばかりの、強迫的ともいうべき、服装・頭髪・持ち物などの規制と身体検査。