【連載】学校の「あたりまえ」を考え直す 4 教育現場では価値が序列化

明治大学准教授 内藤 朝雄

さまざまな価値の序列、すなわち教員や生徒がどの価値を重く、またどの価値を軽く扱っているかを観察することから、学校のコスモロジーの内実を調べることができる。

多くの教員たちは、身だしなみ指導や挨拶運動、学校行事や部活動など、人間という材料を「生徒」に変えて「学校らしさ」を明徴するためであれば、長時間労働をいとわない。

その同じ熱心な教員たちが、いじめ(教員が加害者の場合を含む)で生徒が苦しんでいても面倒くさがり、しぶしぶ対応し、ときに見て見ぬふりをする。私たちはそれをよく目にする。

ある中学校で、目の前で生徒がいじめられているのを見て見ぬふりをしていた教員たちが、学校の廊下に小さなあめの包み紙が落ちているのを発見した途端、大事件とばかりに学年集会を開いた(見て見ぬふりをされた本人、現在大学生の回想)。こういったことは、典型的に日本の学校らしい出来事だ。

いじめで生徒が苦しんでも「学校らしい」学校のコスモロジーは傷つかないが、廊下にあめの包み紙が1つ落ちているだけで大事件になる。

このような「学校らしい」学校とは何だろうか。

ある小学校で、1年生女児が露骨かつ執拗にいじめられていたのを担任が放置し、一時は睡眠時驚愕症になってしまった。その後、相談した教頭が熱心に介入し、露骨ないじめは影を潜めたが、水面下の孤立化工作、無視や顔そむけ、ひそひそ話は続いた。クラス替えまで被害者は加害者と関わらないようにしていた。クラス替えの前に母親が「『こういう(いじわるな)人もいるんだ』と理解して今は騒がず受け流すようにしている」と教頭に伝えると、教頭は「残念です。こんな人もいる、と諦めてしまうのでなく、仲良くなってほしかった。ここの学区の子供たちは優しい子が多いはずなんです」と言った(母親へのインタビュー)。

この事例から、「学校らしい」全体主義のエッセンスを取り出すことができる。この世に1人しかいない、現に生きているかけがえのない6歳児〇〇ちゃんが苦しかったろう、つらかったろうということは、教頭の目に入らない。それよりも、「ともにかかわりあい、まじわりあい、そだちあう」大いなる全体(集合的生命としての学校)が大切だ。

一人ひとりの人間は学校生命が生き生きと躍動するための材料である。「学校らしい」共生を離れた個人は鴻毛(羽毛)のように軽い。6歳児が睡眠時驚愕症になるほど校内で虐待され続けたことよりも、個人(被害者)が、「ともだち(加害者)」と「なかよく」融け合う関係を拒否することの方が、学校のコスモロジーのなかでは残念なことなのだ。