【連載】学校の「あたりまえ」を考え直す 6 全体主義は素直さ気にする

明治大学准教授 内藤 朝雄

内容が異なるさまざまな現象から共通のかたちを切り出し、別の現象に当てはめて考えることで、これまで論じてきた全体主義のコスモロジーについて、さらに理解を深めることができる。

学校は「教育」「学校らしさ」「生徒らしさ」という膜に包まれた小さな世界になっている。その中では、外の世界では別の意味を持つことが、全て「教育」という色に染め上げられてしまう。そして、外の世界のまっとうなルールが働かなくなる。

こういったことは学校以外の集団でも生じる。

例えば、宗教教団は「宗教」の膜で包まれた別の世界になっている場合が多い。オウム真理教教団(平成7年に地下鉄サリン事件を起こした)では、教祖が気にくわない人物を殺すように命令していたが、それは被害者の「魂を高いところに引き上げる慈悲の行い(ポア)」という意味になった。また教祖が周囲の女性を性的にもてあそぶ性欲の発散は、ありがたい「修行(ヨーガ)」の援助だった。

また連合赤軍(暴力革命を目指して強盗や殺人を繰り返し、昭和47年にあさま山荘で人質をとって銃撃戦を行った)のような革命集団でも、同じかたちの膜の世界が見られる。

そこでは、グループ内で目をつけられた人たちが、銭湯に行った、指輪をしていた、女性らしいしぐさをしていたといったことで、「革命戦士らしく」ない、「ブルジョワ的」などと言い掛かりをつけられた。そして彼らは、人間の「共産主義化」「総括」を援助するという名目でリンチを加えられ、次々と殺害された。

学校も、オウム教団も、連合赤軍も、それぞれ「教育」「宗教」「共産主義」という膜で包み込んで、内側しか見えない閉じた世界をつくっている。そして外部のまっとうなルールが働かなくなる。よく見てみると、この3つが同じかたちをしているのが分かる。これが全体主義の核心部、さまざまなタイプの全体主義に共通する原形である。

全体主義の核心部は単なる独裁ではない。それは個に対する全体の圧倒的優位である。圧倒的優位は個に対する余儀ない浸透性(貫通性)の深さによって現実のものとなる。全体主義と単なる独裁を区分する基準は、一人ひとりの人間存在を変更する集合的イベントへの動員が、日常生活を覆い尽くす度合いである。全体主義は人々のこころや感情や態度の「すなお」さを際限なく気にする。全体主義は人間を魂の底からつくりかえ続け、そのプロセスの中から、個を超えた高次の集合的生命として起動するからだ。