まなびじま奥尻 ―離島の町立高校の挑戦―(2)道立から町立へ にわか校長の出現

eye-catch_1024-768_tawaraya_fin北海道奥尻高校校長 俵谷俊彦

奥尻ブルーの海に囲まれ、豊富な海洋資源に恵まれている奥尻島は、ブナ林があるなど特徴的な島である。昭和30年代には約8千人いた人口は、1993年7月12日に発生した北海道南西沖地震で198人が犠牲となり、その後の復興事業で一時活気を取り戻したが、事業終了後は離島者が相次いだ。77年の創立時に67人いた新入生が16年には11人。今後の出生数を考えると道立では統廃合の対象となるのも時間の問題だった。12年に新村卓実奥尻町長が道教委と協議を重ね、16年度から町で高校を受け持つ、つまり道立から町立へ移管することになった。

町立移管に伴う校旗の引き渡し
町立移管に伴う校旗の引き渡し

町立に移管する半年前の15年9月、道立教育研究所で教員研修の企画・運営担当だった私は、急に所長から「あんた、教頭。奥尻」と告げられた。2週間後には奥尻高校に着任。山下雅巳校長をはじめ、教職員の温かい歓迎を受けた。

息つく暇もなく教頭として半年後に迫った町立移管業務に取りかかった。町立高校として実施する入学者選抜や次年度以降の教育課程の編成、町立移管記念式典等を無事終えたところ、驚いたことに新年度から校長に就任。町立移管後の針路を決定するこの役目は、非常に重いものであった。

高校の存続には成功したが、島内の中学生の本校への入学率、島内の学齢児童数、出生数の流れを見ると、入学生が10人を切る状況の継続が予想された。少人数教育の推進では、生徒数が少ないのは良い面もあるが、やはり十全たる教育を行うには、ある程度の生徒数が必要である。

生徒は幼・小・中と同じ集団で学校生活を送ったため、それぞれの個性を尊重し、非常に協調的に物事を進める素晴らしい特性がある一方、集団の中の心理的な序列や「解消できない人間関係」も抱えていた。自分たちとは違う考え方を持った人との出会いや、新しい人間関係づくりがないため、多様性に対応する力が育っていなかった。何よりも、自分の学校に対する誇りがなかった。経済的な理由などさまざまな事情で「本当は島外の学校に行きたかったが、『仕方なく』入学した」と、何のためらいもなく話す生徒もいた。

「島外からも選ばれる学校にしたい」。それが実現できれば、多様性も生まれ、新しい人間関係が生まれ、「化学反応」が起こる。新しい発見や可能性が生まれ、「自分の高校は人から支持されている学校だ」と、生徒が学校に誇りを持てるようになる。「島外からの生徒の入学、つまり島留学を絶対に実現しなければならない」と「にわか校長」は確信した。