漫才づくりが教育を変える(6)キャラと仁

東京理科大学教職教育センター准教授 井藤 元

今回はキャラとの対比で仁(にん)の問題をさらに掘り下げていく。キャラと仁は決定的に異なる。イジられキャラ、モテキャラ、陰キャラ……それらは仁ではない。「キャラが仁に合っている」という表現は可能だが、キャラ自体が仁とイコールなわけではない。キャラは状況ごとに変えられるが、仁は場面ごとにコロコロと変わるものではない。また、キャラは他人とカブることがあるが、仁は決してカブらない。

そもそもキャラは状況依存的に変わっていくのが常である。例えば、大学では誰から見ても物静かな女子学生が、バイト先ではシフトリーダーとして振る舞い、家族の前ではお調子者、といったことも珍しくない。どれかが本物というわけではなく、いずれの顔も状況に応じて現れた彼女の姿に他ならない。もっとも、それぞれのキャラはバラバラに分裂しているのではなく、緩やかに統合されている。複数のキャラのうち、自分らしさが発揮できているものがあれば、それは「仁に合ったキャラ」ということになる。

キャラの考え方は実に便利である。キャラがあることで役割分担が明確になり、コミュニケーションが円滑になる。「複数の芸人が舞台に立っている状況においては、キャラがブレないことが重要だ」と、ある芸人は言う。誰がボケて誰がツッコむのか、役割がはっきりし、連携が生まれやすくなる。途中でキャラがブレると場に混乱が生じてしまう。

「仁に合ったキャラ」を見定める

キャラは自分自身を守る盾にもなる。この点について別の芸人は「キャラを見殺しにする」という独特の表現を用いている。「舞台上でスベったときには、私がスベったのではない。キャラがスベったのだと思うようにしている」と言う。このような考えにより、生身の自分が傷つくことはなくなる。一つの人格の中でキャラが複数併存しうるからこそ、こうした考え方も成り立つのである。

だが、キャラはレッテル貼りにつながる弊害もある。キャラは人格の単純化の産物であり、多様性が切り捨てられ、一面化されたものである。キャラ漫才を行っている芸人たちの中には、キャラクターの印象が強すぎて、それ以外のネタを行うことが難しくなる者もいる。

キャラと仁を混同しないことがまずもって重要である。探求すべきはキャラでなく仁である。仁はキャラの奥にあるその人らしさを指し、仁にあった振る舞いこそが、その人自身を自由にする。自分自身のかけがえのない仁に気付き、その上で他者の仁に目を向け、尊重すること。これは道徳教育・教師教育を貫く重要な課題といえる。