
星槎大学大学院教授 阿部 利彦
前回、子どもの「分からない」つらさを教師が理解できない、という問題が生じやすい点に触れました。さらに言うなら、教師や勉強ができる子は、分からないことを解決しようとする挑戦を楽しめています。「分かった」「できた」というスッキリ感を何度も味わった経験があるからです。問題が解けた喜びや、ゴールにたどり着いた達成感があるからこそ、人はまたさらなる挑戦を続けられるのです。
一方、分からないことだらけで学ぶことを諦めてしまう子がいます。ずっと分からないまま、分かったふりを続ける子もいます。そういう子どもたちに「分かるまで頑張れ」「できるまで努力しろ」と言っても、そこに主体性は生まれず、強制だけが強化されていきます。
分からない子にとって、「なぜ」「どうして」は探究心を刺激する言葉ではなく、「なぜ分からないの」「どうしてできないんだ」と責められるときの言葉として認識されています。……
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