【見落としがちな道徳の本質(2)】道徳科における主体的・対話的な学び

東京都教職員研修センター教授 朝倉 喩美子

新学習指導要領では、全教科・領域で「主体的・対話的で深い学び」が追究されている。道徳科においては「考え、議論する道徳」を目指し、話し合い、議論など、対話的な活動を取り入れたさまざまな指導方法が提案されている。

新指導要領での道徳科の目標は「よりよく生きるための基盤となる道徳性を養うため、道徳的諸価値についての理解を基に、自己を見つめ、物事を(広い視野から)多面的・多角的に考え、自己の(人間としての)生き方についての考えを深める学習を通して、道徳的な判断力、心情、実践意欲と態度を育てる」こととなっている(かっこ内は中学校)。

この文章の主語を考えると、「道徳性を養うために(中略)道徳的な実践意欲と態度を育てる」のは、教師である。しかし、捉えにくい「道徳性」を取り上げ養うのはかなり難しい。そこで、側面的な要素とされる「道徳的心情」「道徳的判断力」「道徳的実践意欲と態度」を切り口に、それらの育成を図るのが妥当な方法だろう。
しかし「自己を見つめ」るのも、「多面的・多角的に考える」のも、「生き方についての考えを深める」のも、児童・生徒自身の内面に向けた学びの作業である。これを可能にするには、学び手本人が「その気になって考える」真摯(しんし)な努力が欠かせないし、教え導く教師側の「その気にさせて考えさせる」綿密に計算した仕掛けが必要となる。

道徳科における「主体的な学び」について考えてみよう。道徳性の涵養(かんよう)には、前提として児童・生徒自身の「道徳性を身に付け、よりよく生きる自分でありたい」という主体的な学ぶ意欲が必要である。さらに「今の自分の感じ方や考え方、道徳的な価値観は妥当か、伸びる可能性があるのか」「他の人はどうか、今よりよい感じ方や考え方、持つべき価値観はあるのか」という主体的な探究心を持って学習に参加する必要があるだろう。その意味では、道徳科ほど主体的な学びを要するものはない。教師は児童・生徒に、この学びの必然性を感じとらせて、意欲的に学べるような仕掛けを用意する必要がある。

「対話的な学び」はどうか。そもそも感じ方や考え方、物事の価値意識は個人で異なり、何らかの形で外に表現されなければ他の人には分からない。しかるに、道徳科における対話的な学びには、知識・理解の交流だけでなく、主体的な感じ方や考え方、個人の深層にある価値意識の積極的な表出が不可欠であり、重要である。ただ、それは自身の内面を吐露することであり、実態をさらけだすことでもある。人間は社会的な存在であるがゆえに、外敵に身をさらすことを本能的に避ける。特に現代では、心を許して自らをさらけ出すリスクは大きく、発達段階が上がるほど、内面に関わる意見表出は難しい。

逆に言えば、自分以外の外面的なことに関する意見表出はたやすいわけである。これを活用して指導方法に工夫を加え、児童相互の意見交流から内面的な気付きを引き出し耕すことは可能であろう。ただ、安易な活用は教師が陥りがちな落とし穴にはまりかねない。表面的な、評論家風の知識・理解で終わる「話し合い」や「議論」、行動の方法などを再確認して強調するだけの指導がその例である。狙いを誤らず、指導する必要がある。

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