【見落としがちな道徳の本質(4)】教師の「強み」

東京都教職員研修センター教授 朝倉 喩美子

40歳になる教え子が言った。「先生、俺は小学校時代が一番楽しかったなあ。本当にさまざまな友達がいて面白かった。中学、高校、大学と進むに従って同じような考え方の友達ばかりになって、専門性は深まったけれど、だんだん心底楽しいと感じなくなった」。

ここに公立小・中学校の醍醐味(だいごみ)があるなと思う。公立では、土地柄によって若干の差はあっても、金銭的に裕福な家庭の子供もいればそうでない子供もいる。家族構成をはじめ住まいや衣服、朝夕の食事、日々眺めているもの、常日頃耳にしていることもそれぞれ違い、その幅がかなり大きい。

当然持ち合わせる能力、経験、生活習慣も千差万別で、そこから得た感じ方や考え方、価値観は全く異なる。この違いを指導上のマイナスのように言う向きもあるが、同じことを同じように習得させようとする教師サイドの都合であって、子供にとっては違うからこその面白さがある。

この点は公立学校の強みであり、教師にとっての強みにもなる。学校における子供の学びにおいて、この強みを生かさない手はない。

特に道徳科の学びは、価値観の違いがなければ始まらない。自身の考え方や感じ方を認識するにも、「物事を(広い視野から)多面的・多角的に考える」にも、自他のさまざまな感じ方や考え方を出し合って比較検討しなければ難しいだろう。

話し合い、学び合いの価値が大きくなるのは、この違いを子供が認識し、自分の思考や心情、感覚にないものが突き付けられることによって、いや応なしに新たな習得、感得が働くためである。

加えて、人間の多面性や思いの複雑さを意識したり、世の中に内在する「道徳的な問題」の多様性を思い知ったりもする。これらは、道徳科の学習の持つ魅力であり可能性でもある。

教師は「教える専門家」である。教え方はさておき、「知識や新鮮な情報を教え子に正しく伝えたい」「大事なことをしっかり認識させて成長の糧にしてやりたい」という親切心と使命感、責任感にあふれている。

問題は、教える立場と教わる立場の温度差にある。昨今は情報機器の爆発的な進展もあって、子供の知的好奇心を満たし引き付ける教材や教具が、身近にふんだんにある。それらは手軽で、自己中心的な心理をかなりくすぐる。面白ければ再生、面白くなければ即中止・消去でき、実に合理的である。

しかも子供たちは、その学習が役立つかどうかより、楽しいかどうかに価値の基準を置くようになった。黒板の前で孤軍奮闘する教師は、よほど工夫しないと分が悪い。しかし「負けないための手」はあるはずである。

また、教師の指導は文字通り、正しい道、行くべき道を指さし、そこに子供を導くものであるが、示すのは教師でも、道を選択し実際に進むのは子供である。子供が意欲の炎を燃やすよう、奮起を促すのが教師の大きな役割となる。

しかし、教室で孤高を持する教師が、子供の自己中心的な感覚を圧倒し、内面に迫って決定的に意欲付けるのは難しい。それなりの「手段や仕掛け」がなければ無理であろう。

ここで、教師が持てる強みを思い出してみよう。大別すると二つ挙げられる。

ひとつは「『多様多彩な子供の集団』がいつもそばにある」点である。子供にとって自己中心的グッズを上回る魅力は「みんな」であり「いろんな友達」である。みんなで学ぶから刺激的で楽しく、我慢することもいとわないのだ。この「集団で話し合い、学び合う」魅力をいかに生かすかが教師の腕の見せどころであり、強みである。

もうひとつは、教師に委ねられた「言葉」「話力」である。話力は「人間性×内容力×対応力」と言われる(※)。「人間性」には少なくとも、誠実さと熱意と余裕が必要である。「内容力」を向上させるには、「話したいこと」ではなく、「聞きたいこと」を選択するべきであろう。「対応力」には子供の状況を推察、着目しつつ柔軟に受け止め、非言語コミュニケーションもフル活用して「聞きたい」意欲を刺激する。これらを磨くことで、孤高の教師は大いなる強みを持つのだ。

(※)参考:『教師の音声言語』高橋俊三、明治図書出版(1987)

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