【見落としがちな道徳の本質(6)】「道徳科の授業」の肝心要

東京都教職員研修センター教授 朝倉 喩美子

道徳科はどんな時間?

子供や保護者から「道徳科の時間とはどんな時間か」と尋ねられたら、私はこう答えたい。「そうはいっても、なかなかできない自分を見つめる時間」。

人は「飲み過ぎてはいけない」「明日までに仕上げなければならない」など、大概はこうすべきだと分かっている。しかし、実際はつい飲み過ぎて後悔するし、あさってやればいいやと思って寝てしまう。

「○○してはいけない」「△△しなさい」と親や教師から日々教わっている子供たちも、すでに分かっている。でも「つい」まずいことをしてしまう。

なかなかできないのはなぜだろう。「つい」はどういう心理から生まれるのだろう。お話の主人公は、どうしてそれを乗り越えられたのだろう。そういうことを(教師も一緒に)考えて話し合ってみるのが道徳科の時間なのだ。決して、分かりきっていることをなぞったり、できないことの反省文を書いたり、決意表明したりする時間ではない。

教材文の後ろの方に、葛藤を乗り越えた主人公が描かれていることがある。それを「答えが書いてあって、考えさせるのは無駄」という教師がいる。だから安易に後ろをカットしてオープンエンドにし、子供をやみくもに議論させようともくろむ。視点が違うのだ。議論も楽しいが、議論させればいいというものではない。

考える必然性を生む発問

授業には主題がある。「何を考えさせて何に気付かせたいか」の一貫した指導の方針である。「この道徳的価値を切り口に、この実態の子供たちに、この教材をうまく使って話し合わせ、大事なことがあるとそれぞれに気付かせよう」と、しっかり構想するのが大事であり、それが「明確な指導観」となる。

授業には、導入、展開、終末の各段階があるが、全てがこの主題でつながって初めて学習活動の効果が生まれ、個々の子供が十分納得できるものとなる。

授業を主体的な学習にするには、考える必然性を生む発問が必要である。教師が言うから仕方なく考えるのではなく、「考えてみたい」「話し合ってみたい」と知的好奇心がうずくような発問を用意したい。特に導入が大切である。眠くなるような生ぬるいものではなく、刺激的な導入はないものだろうか。

先日見た高学年の公正・公平の授業では、事前に次の二つの質問に回答させ、結果を紹介した。(ア)公正・公平に振る舞うことは大切だと思うか(85%がイエス)(イ)あなたは、公正・公平に振る舞っているか(25%がイエス)。そこから問題意識を喚起する。「公正・公平に振る舞うことは大切だと思っている人が多いのに、していないのはなぜだろう」。これがその時間の学習テーマになった。

高学年「寛容、銀の燭台(しょくだい)」の授業では、教室を暗くし、実際に燭台に灯をともして感想を聞き、そこから問題を投げ掛けた。「この燭台はいったい何のために手渡されたのだろう」。子供たちは早く教材が読みたくてたまらない。話し合いたくてどきどきするのだ。

子供の発言が生きる話し合い

中心的な発問は、多様な考えが出やすいところに設定することが多い。先日見た4年生「友情信頼、泣いた赤鬼」の授業では、「青鬼の手紙を泣きながら読む赤鬼は、どんなことを思っているのだろう」という発問が用意された。「ありがとう。君のおかげで人間と友達になれたよ」「青鬼君、君がいなくなって分かったよ、君こそ一番大事な友達だったんだ」。授業者は、意見を自由に発表させ、さりげなく分類しながら板書した。そして同じ傾向の意見をくくって「この集まりは、短く言うとどういう言葉になるかな」と尋ねた。「感謝です」の答えに、黄文字で「感謝」と書く。同様に「友達についての考え」と書いた。類別して表題を付けることでランダムな考えを整理し、子供に捉えやすくさせる手法である。さらに「大事な友達だったとあるけど、どんな友達が大事だと思ったのかな」「僕のためになることを一生懸命に考えて行動してくれた友達」「そうか。そんな友達がいなくなったら悲しいね」「だから泣いたんだよ。僕は自分のことしか考えていなかったって気付いたんだ」――と続き、双方向の友情の大切さが見えた授業になった。子供の発言に隠れている、ねらいとする価値に関する気付きを引き出して押さえる。子供の発言は大事に生かすべきである。

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