【見落としがちな道徳の本質(8)】「友情、信頼」を考える

東京都教職員研修センター教授 朝倉 喩美子

ロレンゾの友達

高学年の教材「ロレンゾの友達」。20年ぶりに村に帰ってくるロレンゾは警察に追われているらしく、3人の友人はどうしたものかと相談する。アンドレは「お金を持たせて黙って逃がしてやる」、サバイユは「自首を勧め、嫌がったら逃がしてやる」、ニコライは「自首を勧め、嫌がったら警察に連れて行く」と言う。結局ロレンゾは無実と分かり事なきを得るのだが、もし本当に罪を犯して逃げてきたならどうしただろう――。

この教材を使って「誰の考えに共感するか」、またその理由を考えさせることが多い。選択の理由は友情に関する考え方を反映する。どれが真の友情か、子供たちに尋ねて意見交流を図る。ニコライ派がやはり多いが、意外と人気があるのはサバイユで、「最終的に本人の意思を尊重する」ところに友情を感じるという。

しかし、ある5年生の授業で、あぜんとするアンドレ派の考えが発表された。「面倒なやつには関わりたくない。もう二度と戻ってこなくてもいいように、金をたんまり持たせて逃がす」。

確かに、合理的でスピーディーな現代の生活に慣れた今日の子供たちは、面倒なことや煩わしいことを避けたり、一面的な見方で簡単に結論付けたりすることがよくある。友情も同じで、先の児童は、自分にとって都合の悪い存在はもはや友達ではなく、さっさと別の友達を探すという合理的で独善的な考え方をしてしまっているのだろう。

友達の真価は、何か事が起きたときに分かるはずである。困難を共に乗り越えてこそ、真の友情は育まれる。とすると、教材内の友達3人の友情の深さにも違いがありそうだ。見方を変えてみよう。

アンドレは、その場ではとても感謝されるだろう。しかし、ロレンゾのその後にまでは考えが及んでいない。結局は、面倒を抱えた友達を簡単に排斥することになる。

サバイユは自首せよと助言もし、本人の意志を尊重して強引な扱いはしない。単純な例を挙げて考えてみよう。ふざけて教卓の花瓶を割ってしまったA君に、それを見ていたB君が言う。「先生にちゃんと謝った方がいいよ。助言はしたよ。でも僕は知らないから、君がどうするか決めな」。実にずるい考え方と言えはしないか。一見物分かりがよさそうで、一番肝心なサポートはしないということである。

ニコライは、その場ではかなりロレンゾに憎まれる。大事な友達を失うほどの恨みを買うかもしれない。しかし彼は友を見捨てない。警察に付き添い、罪を償うまで励まし続けるはずだ。友を心底大事に思い、友の将来を信じ、励まし合って共に成長しようとする。これこそ真の友情ではないか。

ある授業では「三者三様ではあるが、ロレンゾを大事に思う友情の形に優劣はつけられない」としていて驚いた。教材の本質を見抜いて、真の友情の素晴らしさに気付かせたいものである。

泣いた赤鬼

中学年・高学年、中学校でも活用される教材に「泣いた赤鬼」がある。中学年が求める友達の要件の筆頭は「○○してくれる」、自分にとって都合のいい友達である。これを導入で押さえた上で教材に入り、「友を思い旅に出た青鬼の手紙を泣きながら読む赤鬼は何を思うのか」尋ねる。

意見は「青鬼への感謝、反省や悔恨、失って初めて分かった青鬼の友情の深さと価値」に収れんされる。身勝手な自分を思い知って泣くのだと分かるのだ。

そこから「友達のために何かしてあげてよかった体験」を尋ねて学びを広げる。双方向の友情の大切さへの気付きができる。高学年では「こういう友情をどう思うか」と尋ねることもできる。「結局皆不幸になってしまった。赤鬼は罪深い」「青鬼は自己犠牲の上に友情を見いだした。間違っている、かわいそう」という意見が出る。しかしこれでは青鬼の立つ瀬がない。

そこでさらに「青鬼は、犠牲になろうとして赤鬼を助けたのか」と問う。皆で話し合い、「青鬼は純粋に、今困っている赤鬼を見捨てられないのだ。友達の窮状を何とかしてやりたい一心で助け、姿を消したのだ」という結論に至った。自己犠牲ではなく、人間愛、無償の友情である。

中学校では、青鬼に批判が集まることが多い。「かっこよすぎる。最後に姿を消すなんて出来すぎ」「赤鬼の泥臭さと折半できたら良かった」「赤鬼は青鬼を探しに旅に出るのではないか。自分勝手な人間との付き合いにも限界があるだろうし」。中学生の話し合いは実に面白い。

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