【見落としがちな道徳の本質(10)】「よりよく生きる喜び」について考える

東京都教職員研修センター教授 朝倉 喩美子
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「よりよく生きる喜び」は、中学生のみの内容項目であったが、今回の学習指導要領改訂で小学校5、6年生から取り扱うこととなった。小学生の段階で考えさせるには高度な境地であり、人間としての矜持(きょうじ)、人生を切り開いていく際の背骨ともなる価値観であると思う。これを「人生」「生き方」「自分らしさ」といった言葉に興味を持ち出し、自分自身を客観視し始める頃から学習することに意義がある。

また、視点Dの『主として自然や崇高なものとの関わりに関すること』に入っている点にも留意したい。つまり、生命や自然、美への畏敬の念とともに、人間の精神性の素晴らしさや真摯(しんし)に生きる姿勢の気高さを崇高なものとして価値付けるものである。いわば、人間賛歌の内容項目である。

「真・善・美」などよりよいもの、より優れたものに抱く飽くなき探求心や知的好奇心の旺盛さ、大地震や台風、噴火などの自然災害にも屈しない精神や協働の力、小さな存在や弱い者、虐げられた者へのいたわりや温かさ、そしてこれらに触れるたびにみせる繊細な感情の働き――。

実際、人間という存在が持つこうした資質には感嘆せずにいられない。さらに人間は、生きることそのものに意味や価値を見いだし、自ら生きようとする意志を働かせる。生きていることを喜び、今を楽しむ精神的余裕をも生み出せる。

しかし、意志や無意志が方向を変えて働く場合もあるのが人間の複雑さであり、人間らしさでもある。生きる意味や価値が見いだせなくなった途端に自らの「生きようとする内面的な力」が萎(な)え、簡単に生命力を弱めてしまうことがある。また、よりよく生きようとする方向性を見誤って自暴自棄になったり、自身の持つ能力の大きさを自覚せぬまま、あるいは過信するがゆえに、他者を安易に傷つけ、自己の立場や存在意義を失ってしまったりもする。程度に差はあれ、簡単に誘惑に負けたり、他人をうらやみ、そねみ、ひがんだりする。これらもまた、人と関わりながら生きる人間の常、心の闇の部分であろう。

道徳は、人が備えるべき哲学であり、高度な精神的志向性であり、人間にしかできない学びである。そして子供一人一人が人生を「自分らしく」「よりよい方向に」「より豊かに」構築していく上で欠かせない学びであり、その集積は終生その子のモラル・バックボーンとして働き続ける。

この意味でも指導者の役割は大きく、責任は重い。同時に指導者にとっても、発展途上の人間として児童生徒と共に思考し、自身の生き方・生きざまを見つめ、人生を豊かに構築していく付加価値的な学びの時間にもなる。ここにも道徳科の学びの特色がある。

こういったことを考えると、「よりよく生きる喜び」という内容項目は、道徳そのものに真っすぐ迫る学びとも言えよう。

中学校の教材「カーテンの向こう」。治る見込みのない重病患者がベッドを並べる重苦しい病棟で、皆の唯一の楽しみは、一つしかない窓の近くのヤコブが、カーテンの隙間から眺めた外の景色を面白おかしく話してくれることだった。皆と一緒に笑いながら、「私」はやがてヤコブをうらやみ、憎むようになる。ヤコブはかたくなにベッドの場所を譲らない。「そうだ、ヤコブが死ねばいい。そうすれば、次に古い私がそのベッドに行けるのだ。おれひとりだけで楽しむんだ」。ヤコブが息絶えた後、「私」はようやく望んだベッドに移される。わくわくしながらカーテンの隙間をのぞき込み、そこに見えたものは――。

発問例は、

・「『私』はカーテンの向こうにあるものを知って驚く。その後いったいどうするだろう」。小集団などで話し合わせると、大きな論議になる。なぜそう思うのか理由や考えの根拠を尋ねることによって、ねらいとする価値に関わる考えが引き出される。全体で論議する。

次に以下を尋ねたい。

・「ヤコブの生き方をどう思うか」。これまた論議が生まれる。他人の楽しみのために生き、「私」に恨まれて死んだヤコブの生き方をどう捉えるか。自分自身の生き方に資するものはあったか、それぞれの考えが引き出される。「私」に自己を投影させながら話し合うことで、人間の弱さとともに、強さや気高さも理解して、自分らしい生き方を模索できる。

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