【主体的に考え、行動する生徒を育む(2)】「ヒドゥン・カリキュラム」の影響力

学校法人自由の森学園理事長 鬼沢 真之
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学校の中で、生徒に主体性は必要ないと考えている教師はほとんどいないでしょう。子どもたちがこれから、自分の人生を自分らしく選択して生きていくために、私たちは日々授業をし、行事や部活動を援助しています。少なくとも戦後教育においては、一貫してこの理念を大切にしてきました。

昨今、アクティブ・ラーニングの必要性が叫ばれているのは、その理念が結実するどころか、社会の要請に追いつかない状況が生まれているからでしょう。求められた仕事を早く丁寧にこなす能力は、おそらく日本の子どもたちや若者は世界トップクラスです。

しかし21世紀に入って情報化社会となり、産業界が求める能力は急速に変化しています。「与えられた」仕事をこなしているのでは、変化する需要に対応できません。現代に求められる、すばやく新しい需要を発見し、商品やサービスを開発していくスタイルと、従来型の資質にはずれが生じているのです。

もちろん、学校教育は産業界の要請に応じて展開するものではありません。とはいえ大局的にみれば、社会の変化に伴い求められる資質や能力は変わっていきます。

同時に、自分らしく生きるという価値は憲法が保障する不変の価値です。

この問題を考えるに当たり、「主体性」と「自主性」の違いに触れておく必要がありそうです。自ら進んで学習や部活動を行うことは自主性、もしくは自発性の部類に属するものでしょう。一方、主体性は、どういう行動を選択するか、どういう価値判断をするかを含むものと言えます。

保護者から小言を言われる前に宿題を済ませる行為は、自主性はあっても主体性があるとは言えません。押し付けられた自主性を発揮する子どもに、主体性の芽は育たないように思います。得てして学校という空間は、引かれたレール上を走る自主性を求める構図になりがちです。そういった意識は持っておくべきでしょう。

学校にはカリキュラムがあり、それが体系的に組み立てられ文章化されているのが教科です。一方で、文章化されていない、もっと言えば意識化されていない「ヒドゥン・カリキュラム」(隠れたカリキュラム)も存在します。

これは教師の日常の声掛けや表情、態度には表れるものの、決して明文化されるものではありません。しかし、生徒たちはそこから確かに何かを感じ取り、自分の振る舞い方を選択しているようにも見えます。ヒドゥン・カリキュラムの総体が、学校文化や校風を形成していると言っても過言ではないでしょう。

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