【寛容な教室のつくり方(6)】腹を立ててもよい、感じることは自由

弁護士・特定非営利活動法人ストップいじめ!ナビ理事 真下 麻里子
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前回、私は「友達から借りたDVDに傷を付けて返してしまった子が、その友達を含むグループの子たちから仲間はずれにされる」という事例において、仲間はずれにした側の「内心の自由」(憲法19条)という価値にも、子どもたちには向き合ってほしいと述べました。

「内心の自由」とは、思想・良心の自由とも呼ばれ、日本国憲法において保障されている精神的自由のうちの一つです。私たちは、内心でどんなことを考えていても、それを行動として外に表さない限りは絶対的に自由です。個人の「思っていること」や「感じていること」は、その人の人格や尊厳を支えるものですから、極めて重く尊いものと考えられています。

ですから、他人が簡単に「こう感じてはいけない」とか「こう思わなければならない」「こう思うべき」などと強制することはできません。相手の感覚を安易に否定するのはとても危険です。その人の人格や尊厳を支えるものを否定しているに等しいからです。

さて、そうした前提に立って事例に戻ると、仲間はずれを行った子たちは確かに「手段の選択」(第5回参照)を誤り、「いじめ」(いじめ防止対策推進法2条1項)を行ってしまいました。

しかし、だからといって「DVDを傷付けられても腹を立ててはいけない」とか「友達から相談を受けても共感してはいけない」などということでは決してありません。誰だって大事な物を傷付けられたり、友達にひどいことをされたりしたら腹が立ちます。腹を立てること自体は「自由」なのです。

この事例は、あえて多様な立場・意見が出るように設定しているので、いじめを行った側に感情移入する子どもも多数います。そうした子たちの中には、この事例が「いじめ」の事例であることを明示した途端に、自分が「責められている」と感じてしまう子もいます。

子どもは行動を問題視されると、内心まで一緒に責められたと感じてしまう傾向にあります。私の授業で自己肯定感が下がるようなことがあっては本末転倒ですから、そうした勘違いだけは絶対に避けなければなりません。

そのため、子どもたちには積極的に「腹を立ててよい。感じること自体は何ら否定されるものではない」と伝えるようにしています。あくまでその後の行動、「手段の選択」が問題なのだと。

一方、ここで他の手段を選択「すべき」と論じるのは「力のコミュニケーション」になる可能性があるので、気を付けなければならないと思うのです。

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