【寛容な教室のつくり方(7)】「個人が尊重される社会」の実現に向けて

弁護士・特定非営利活動法人ストップいじめ!ナビ理事 真下 麻里子
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前回、私は「友達から借りたDVDに傷を付けて返してしまった子が、その友達を含むグループの子たちから仲間はずれにされる」という事例において、DVDを傷つけられて腹を立てること自体は「自由」(憲法19条「内心の自由」)で問題がないこと、その解決手段として「いじめ」(いじめ防止対策推進法2条1項)を選択したのが問題であることを述べました。

その上で、それを子どもに伝える方法として、「他の手段を選択『すべき』」と論じてしまうのは「力のコミュニケーション」(第1~3回)になる可能性があるから気を付けなければならないと述べました。

私が「力のコミュニケーション」と呼んでいるものは、その場にいる「私」でも「あなた」でもない「第三者」が作った規範を持ち出し、それを相手に強制しようとしてしまうことです。「規範に従え」のニュアンスを持つ「すべき」という言葉を使い、相手を説得しようとすることもこれに含まれます。

ですから、先の事例において「他の手段を選択『すべき』」と論じてしまうのも、厳密に言えば「力のコミュニケーション」になり得ます。

誤解のないよう念のために述べておきますが、私は「すべき」という言葉の言葉狩りをしたいわけではありません。

第1回でも触れましたが、私たち弁護士の使命は、基本的人権の擁護と社会正義の実現です(弁護士法1条参照)。そうである以上、真に個人が尊重される社会を実現するために、可能な限りの努力をしていきたいのです。個人が尊重される社会とは、多様な背景や価値観を有する人々が、互いの権利を調整し合いながらつくり上げていく社会です。

そのためには、大人が強制力を使わずに相手を説得していく様子やその方法を子どもたちに見せていくことが重要だと考えています。

そうすることが誰かを排除・抑圧したり、自分の都合を優先したりするための「力」として、法律を使う人ではなく、困っている人や弱い立場にある人たちのために使える人々を育てることにつながり、さらには寛容な社会をつくっていくことにつながるのではないでしょうか。

ですから、子どもたちの人格や尊厳を尊重し、できる限り強制力を使うことなく「他の手段」について語るとき、私は子どもたちに「他の手段を選択して『ほしい』」と論じる以外にないと考えています。

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