【コロナの先の学習評価の行方(2)】そもそも「評価」とは何か

京都大学准教授 石井 英真
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「評価」という言葉を聞いて何をイメージするでしょうか。些細な仕草からその日の子供の心理状況を感じ取ったり、授業中の子供のつぶやきをキャッチしたり、教師は授業を進めながらいろいろなことが自ずと「見える」し、見ようともしています(見取り)。しかし、授業中に熱心に聞いているように見えても、後でテストしてみると理解できていないこともあります。子供の内面で生じていることは、授業を進めているだけでは見えず、そもそも授業を進めながら全ての子供の学習を把握することは不可能です。

さらに、公教育としての学校には、意識的に「見る」べきもの(保障すべき目標)があります。このように、教える側の責務を果たすために、全ての子供たちについて取り立てて学力・学習の実際を把握したいとき、その方法を工夫するところに「評価」を意識することの意味があります。

「見取り」「評価」「評定」の違い

そして、認定・選抜・対外的証明のために「評価」情報の一部が用いられるのが「評定」です()。「評価」という言葉で、この「見取り」「評価」「評定」がごちゃまぜになっていることが、「評価」をすればするほど疲れるという状況の背景にあります。

そもそも、「この内容を習得させたい」「こんな力を育てたい」といった願いや狙いを持って、子供たちに目的意識的に働き掛ければ、それが達せられたかどうかという点に自ずと意識が向くでしょう。評価的思考は、日々の教育の営みには内在しているのです。

よく「アクティブ・ラーニングや探究的な学びの評価は難しい」という声を聞きますが、それはそうした学びを通して育てたいものの中身、すなわち目標が具体的にイメージできないことが大きいのではないでしょうか。

また、目標が明確でないと、学びの過程を無限定に評価することになります。そして、教師と子供の応答的な関係で自然に見えているものを、「評価」だから客観性がないといけないと必要以上に記録(証拠集め)をしてみたり、評定のまなざしを持ち込んで、日常的な学びを息苦しくしたりすることにつながります(指導の評価化)。

特に、現行の小・中学校の観点別評価は、毎時間の授業観察で「思考・判断・表現」や「関心・意欲・態度」の表れを見取り、さらには記録する評価として捉えられがちで、授業において教師が評価のためのデータ取りや学習状況の点検に追われる事態が生じています。「指導と評価の一体化」の前に、「目標と評価の一体化」を追求することが必要であり、学び丸ごと(子供が学校外の生活も含めたどこかで学び得たもの)ではなく、目的意識的に指導したこと(学校で責任を持って意図的に教えたこと)を中心に評価することが重要です。


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