【大学入試改革を問う(9)】海外の大学入試制度と比べることの是非

東京大学教授 中村高康
この連載の一覧

入試制度に関する議論をしていると、なぜかうらやましげに海外の話を引き合いに出すパターンが後を絶たない。私自身も社会学者の端くれではあるので、諸外国の入試制度には大いに関心があり、そこから何がしかのヒントを得ることは珍しくない。ただ、海外の制度を称賛する議論においては、ほとんどその国の社会的文脈を無視していることが多い。

例えば、一番多く引き合いに出される国として、米国がある。よく「日本のような偏差値輪切りではなく、多様な個性を重視した選抜をやっている」とか「共通テスト(SATやACTと呼ばれるテストが米国にはある)は年に複数回受けられて便利だ」とか言われる。しかし、米国の大学案内にも入学難易度が数値で書き込まれていることや、米国の多面的選抜がかつてのユダヤ人差別と結び付いて生まれてきたと言われていることは、ほとんど触れられない。共通テストの発達についても、中等教育段階以下の教育があまりに多様で、義務教育に至っては州によって年限が違うといった背景から発達したという見方もあることなどは、日本ではほとんど踏まえずに語られている。

私の専門分野である教育社会学では、教育システムの代表的な社会的機能として「選抜」というものが書籍によく取り上げられる。社会の中で誰をどのようなポジションに配置するかということは、どんな社会でも課題となるが、現代社会においてはその役割の一部を教育システムが(好むと好まざるとにかかわらず)担う形になっている。「選抜」は教育システムのどこかの局面で必ず生じることになるが、それがいつどこで起きるのかについては、その社会のさまざまな条件によって異なっている。米国であれば、大学入試では日本のように細かい選抜をする仕組みはないが、高校までにさまざまな障壁が存在していたり、入学後に退学・転学したり、大学院進学段階でまた選抜が生じたりする構造を持っている。ヨーロッパの国々も、日本と比べて大学入試は緩やかに見えるが、一方で初等中等教育段階で相当数の子供が留年するのが常態となっているケースも多い。

こうした事実を踏まえれば、「大学入試を変えれば全て良くなる」と想定することが非現実的だと分かるだろう。別の局面でさらにゆがんだ選抜が生じてしまうことも十分あり得るからである。安易な外国礼賛に乗りすぎないように気を付けたい。

(おわり)


この連載の一覧