【連載】なぜ、ゆとり教育は失敗と言われてしまったのか 第4回 外野の声はもうごめんだ

京都造形芸術大学教授・元文科審議官 寺脇研

 

最近、ありがたいことに、教育界以外の人々にも「生きる力」や総合的な学習の価値を理解してくれる方が多くなった。あのマスコミにすら、そうした見方が現れてきている。

ただ、そんな皆さんが私に同情してか、「『ゆとり教育』って、考え方は良かったんですよね。あれは最初に、現場の教師の理解や力が足りなかったから失敗したんでしょ」とくるとなると、きっちり反論したくなる。

現場が悪いのではない。前回書いたように、実施前に文科省の腰が据わっていなかったから混乱したのである。

日本の先生方は生真面目だ。多少の戸惑いや不安はあっても、これでやるんだ! となったら真剣に取り組んでくれる。

平成4年から実施の前々指導要領でも、小学校の生活科、中学校の選択教科、高校の単位制や総合学科、中高の家庭科男女必修など、世間に反対論もある中で、それまでにない新しいものが導入された。

文部省(当時)が全力で現場に趣旨徹底し支える中で、見事に定着させてくれたではないか。

大先輩である戦時中の教師は、1学期まで軍国主義教育だったのを、敗戦後の2学期には民主主義教育に百八十度切り替えた。それが子供のためになると納得したら、全力でやり遂げてくれる。私自身、出向した福岡県や広島県で何度も目の当たりにしてきた。

前指導要領のつまずきは、私も含め文部科学省が現場を支え、外部からの雑音に対処しきれなかったから以外の何ものでもない。

平成15年の一部改正当時の河村建夫大臣など、前指導要領を作る議論から熟知している文教族の大臣は「生きる力」の必要性を熟知し擁護もしてくれた。しかし、政治主導の声が高まる中で外部の素人談義に引きずられる大臣もいた。

平成19年には全国一斉の学力調査が始まり、「学力向上」競争を過熱させる。各学校が”テスト対策”に奔走させられるなど、その弊害は明らかだが、その裏にある学力至上主義は根強い。

平成18年に安倍晋三内閣が成立すると、首相直属の教育再生会議が発足し、「脱ゆとり」が政府の方針として掲げられるようになる。その流れで平成20年に指導要領が改訂され、23年からの現指導要領となっている。

全体に授業時間数や最低基準である指導要領の示す内容が増えたのに対し、総合的な学習の時間が減り、中学校の選択教科が廃止されるなどしたことから、マスコミは「脱ゆとり教育」が始まったと言いはやした。

だが、文科省は「脱ゆとり」だとは認めていない。現指導要領を解説する保護者向けのパンフレットには「平成14年度から実施されてきた学習指導要領では、『生きる力』を育むことを理念としてきました。新しい学習指導要領では、子供たちの『生きる力』をより一層育むことを目指します」と明記してある。

教育現場でも、9年間使われてきた前指導要領を通して、「生きる力」の重要性や総合的な学習の意義は徐々に理解され定着しており、学力至上の詰め込み的教育に戻る気配はなかった。「脱ゆとり」と騒いだのはマスコミと、それに踊らされた外部の人々だったのである。

教育を〈量〉の側面からだけ考えれば、「ゆとり」か「詰め込み」かの不毛な二項対立になってしまう。前述のパンフレットには、「『ゆとり』か『詰め込み』かではなく、基礎的・基本的な知識・技能の習得と思考力・判断力・表現力などの育成との両方が大切。それぞれの力をバランスよくのばしていきます」とある。〈量〉だけでなく、〈質〉を考えていこうというのだ。

そして、今回発表された次期指導要領改訂の基本方針である。外圧による多少の曲折はあったものの、前指導要領、現指導要領から次期指導要領まで、平成8年の中教審答申の理念は、一貫して守られている。

外部の素人には教育の〈量〉や学力調査の順位などの数値しか見えない。それゆえ外圧となるのだが、われわれ教育の専門家は、〈質〉をしっかりと見据え、数値には表れない、これからの教育が持つべき理念を追求していくべきなのである。

外野の声に惑わされるのは、もうごめんだ。

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