【連載】なぜ、ゆとり教育は失敗と言われてしまったのか 第5回 迷いなく教育活動に邁進を

京都造形芸術大学教授・元文科審議官 寺脇研

 

「ゆとり教育」というマスコミのレッテルが悪かった、とよく言われる。文科省がちゃんとしたスローガンを出すべきだったとも。

しかし、行政がスローガンを打ち出すのは危ない。平成4年に私が携わった「脱偏差値」もマスコミ造語だ。文部省(当時)が行ったのは、偏差値にのみ依存する進路指導の見直しであって、偏差値そのものを否定したのではなかった。

「ゆとり教育」をあえて言い換えるなら、「生涯学習時代の教育」だろうか。なぜなら、前指導要領の礎となった平成8年の中教審答申も、もっといえば平成4年実施の前々指導要領も、昭和62年に出された臨時教育審議会(臨教審)答申が掲げる生涯学習社会の実現という方向性にルーツを持つからである。

「いつでも、どこでも、誰でも学べる」生涯学習社会では、学習者の自主性すなわち「自ら学び考える力」が尊重され、自ら学ぶ意欲を持つ人間を育成する必要があった。

中教審答申の「生きる力」は、生涯学習時代を生き抜く力を意味している。昭和59年から3年間議論した臨教審が「生涯学習社会」を結論としたのは、未来予測が前提にあった。

約30年後となる2020年頃を想定し、(1)深刻な少子高齢化(2)科学技術の飛躍的進展(AIなど)(3)全地球的国際化(4)高度な情報化(ネット社会)——となる中で、明治以来の画一的な教育システムでは対応できなくなると考えたのである。

それに変わるものとして提案されたのが、生涯にわたり、個々人が自らの意思で学びたいことを学び続ける生涯学習の考え方だった。

予測のつかない展開を見せるだろう21世紀の社会に欠かせないのが、一人ひとりの主体的判断と行動である。それを可能にするには、画一教育でなく、個人個人に応じた学習機会の提供こそ必要だと臨教審答申は述べる。この方針は閣議決定され、その後の教育改革の基本とされることになった。

一部に臨教審を新自由主義と決めつけ批判する向きがあるが、当時、間近で接してきた者として、はっきり否定したい。たしかに発足当初は、学校教育の民営化など衝撃的な議論が多かったのは事実だ。だがその議論にしても、「文部省対日教組」という図式のみで国民の声を寄せ付けない閉鎖的な教育界への警鐘となり、文部省と日教組の「歴史的和解」から「開かれた学校」、さらには開かれた教育行政を実現させていった効果は見逃せない。

そして慎重に検討を重ねていった最終結果は、新自由主義による劇的改革ではなく、生涯学習という考え方による漸進的改革路線だった。その線に沿って、生活科、総合的な学習、選択科目、総合学科、家庭科男女必修、学校週五日制などが十数年の時間をかけて取り入れられる。「ゆとり教育」なんかでなく、「生涯学習時代の教育」とするゆえんだ。

臨教審が想定した2020年はすぐそこだ。オリンピックに浮かれている場合ではない。08年にはリーマン・ショック、11年には東日本大震災と原発事故、16年にはイギリスのEU離脱とトランプ候補当選……。想定外の事態が次々と起きている。

さらに先、2025年頃にはAIやロボットの発達で現在の職業の3分の2がなくなる。2040年には日本の市区町村の約半分が消滅。そして巨大地震の予感も……。従来型の受験学力では対応できなくなると思えるからこそ、文科省は大学入試改革を迫っているのではないのか。

アクティブ・ラーニングの重要性は、高まるばかりである。しかし、むやみにうろたえる必要はない。前指導要領以来の総合的な学習の方法を取り入れていけば、あらゆる教科で能動的な学習は可能だ。先日、平成14年以前から総合的な学習に取り組み、今までブレずに続けてきた福島市立福島第三小学校の教育研究公開を見て、改めてその意を強くした。

これからの困難な時代を生き抜く力、すなわち「生きる力」は、教育によってしか根付いていかないと確信し、現場の先生方は迷うことなく、教育活動に邁進していただきたい。
(おわり)

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