【連載】「ライブとしての授業」を研究する やりがいのある校内研究のススメ 2

京都教育大学教授 榊原禎宏

仮説検証モデルは有効か

都道府県や中核市等の教育センターでは、校内研究(授業研究)の重要性をうたい、各校で取り組めるようにガイドブックなどを用意している。その中に、例えば次のような記述がある。

「研究の仮説—研究の仮説を設定する意義とその立て方 客観性をもたせ、研究の具体的な見通しを示す」(愛媛県総合教育センター)。そこでは、仮説の書き方として「◯◯において((1)場、内容等↓研究対象の限定)、◯◯を◯◯することによって((2)手立ての工夫↓研究のポイント)、◯◯なるであろう(ねらい、目指す児童生徒像↓検証方法の確立)」(福岡県教育研究所連盟編『新訂校内研究のすすめ方』)を引く。

次に具体例として、「学習過程を、ひとり学習1→小集団学習→全体学習→ひとり学習のステップで構成し、特にひとり学習において次の手立てをとれば、一人ひとりの児童生徒に応じた学び取る力が育つであろう。(後略)」を挙げる。

そして、検証については「児童生徒の活動の様子を観察し、記録する」「児童生徒や保護者の意見をアンケート等により収集する」「児童生徒の作品やテスト結果を分析する」など複数の方法を検討し多角的に——と述べる。

さて、この研究方法は、授業を捉える上でいかに適切だろうか。

まず、授業者の意図や振る舞いが授業を決定づけるという前提は、児童生徒数と彼ら/彼女らの状況が授業に影響を及ぼすことと相反する。つまり、「仮説—検証」モデルは「子供には子供の都合がある」ことを軽視する。

また授業者や児童生徒にどうしようもないこと、例えば、その日の天気や気温・湿度、たまたま飛び込んできた大きなハチなども影響を及ぼすが、これらも想定されず、授業は密閉された実験室で行われるがごとく実際的ではない。

さらに、ここでは「学び取る力」の検証だが、その定義がないので事実の捕まえようがない。つまり、目視、ビデオ撮影、アンケート、聞き取りのいずれでも、原理的に検証できない。できるのはせいぜい「何となくそんな感じがする」までである。

そうしたものを科学とは呼べないから、授業研究は科学ではない。

「仮説—検証」モデルは、厳密な定義が可能で、観察や測定の対象が明確、かつ事実の再現性が担保されうる自然科学の領域に有効である。よって、変数の定義ができず、観察もままならず、同じことが二度と起こらない授業を議論するときに、このモデルを採用する意義はない。

授業とは高い即興的性格を持っており、「あの生徒が面白いことを言った」「あんな展開になるとは思わなかった」と意外性に価値が与えられ、期待されてもいる。だから、学習指導案は授業直前でもなお「案」に留まり、PDCAサイクル論の第一局面である「P」が確定されえない。

にもかかわらず、自然科学の作法を何となくではあれ採用する学校と、学校を指導する教育委員会は、より賢くならなければならない。

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