【連載】「ライブとしての授業」を研究する やりがいのある校内研究のススメ 3

京都教育大学教授 榊原禎宏

 

見られていないふり

授業者の意図や計画、いわゆる実践を通じて授業をどれだけ操作できるのか。

授業者の思惑とは異なって、児童生徒それぞれの状況(1人の生徒が授業に肯定的、中立的、否定的のいずれかだとして、30人クラスの場合、そのパターンは3の30乗、205兆を超える)、あるいは休み時間や授業中の偶然の出来事に、授業は少なからず左右される。

ましてや今は「学び」第一の時代である。一人ひとりの子供がよりよく学ぶための環境として授業も位置付けられるから、授業を提供する側だけの都合で彼ら/彼女らの学習のありようを決めることは、技術的のみならず理念的にも困難だ。

にもかかわらず、授業者が仮説を立ててその検証過程として授業を追いかける、そして結果を確かめるという研究スタイルを採れば、それは授業の実際とかみ合わない。たとえ、仮説—検証という言葉を用いなくても、授業が基本的に授業者の行動に帰属するという思考モデルで説明しようとすると、授業の場面では不思議なことが起こる。

それは、発表授業や公開授業と銘打っているにもかかわらず、つまり参観者に見せるための授業なのに、まるで参観者がそこにいないかのように授業者が振る舞い、子供たちにも直接間接そう求めることである。

例えば、まだ休み時間なのに生徒はもう着席している。いつもならぎりぎりまで遊び、ときに遅れるような子供すらも。事前にそう伝えているからだ。傍らで教員は「そんなに緊張せんでええで。普段どおりでな」と声を掛ける。自身をも含め、いつもとは違う空気が流れていることを承知しているのだ。

日頃ならば授業中にトリビアを披露したり冗談を言ったりするだろう授業者も、今日は「脱線」をしない。そもそも学校指導案にそれらを書き込めないし、そんな「冒険」をするつもりもないから。

こんな話まで聞く。同じ授業を同じ生徒に対して公開前日にやっておくというのだ。驚くことに、指名する生徒まであらかじめ決めておくのだと。これは「やらせ」以外の何なのだろうか。

そんな無理もじきに判明する。授業が終わった直後、まだ教室に参観者が残っていたのに、「先生、いま頑張ったから次は遊びでいいよね」と児童が口々に声を上げ、授業者を赤面させた。あるいは、授業の前日に自信ありげに話していた中学校社会の教員が授業後、「いやあ、エースが休んでしまったので…」と弁解した。あなたの授業はエース頼みだったのか。

授業はすぐれてオープンシステムであり、実験室で対象を操作することとは真逆ですらあるのを教員自身がよく知っているにもかかわらず、後者に適した「仮説—検証」モデルに従うと、予定されたショー(見せ物)かのように授業を扱い、授業者や生徒の普段の様子を見ることを困難にさせる。

だから研究発表会は多分に「行事もの」で終わり、その後の改善につながることが少ない。「研究指定が終わった学校は荒れる」という都市伝説を生むことにもなる。

では、どんな授業研究ならば可能なのだろうか。

そのヒントとして、ドイツの常設文部大臣会議(KMK)の委託研究として進められてきた「エビデンスに基づく授業診断・開発方法」(EMU)を次に紹介しよう。