【連載】「ライブとしての授業」を研究する やりがいのある校内研究のススメ 6

京都教育大学教授 榊原 禎宏

授業を観察する診断能力

タンデム・パートナーを得て、1年を単位に、自分の授業とその課題について考え、相手に理解してもらい、授業観察と話し合いを通じてフィードバックを促すドイツの試みは、授業は多くの人に見てもらうのがいいと思いがちな日本の関係者に疑問を投げかける。

日本の研究授業の映像を、ドイツの教員に見てもらったことがある。予想していたが、「授業を観ているこの人たちは、どれほど授業者のことを知っているのですか」「授業者は参観者とどれくらい知り合いなのですか」と反応のあったことが印象的だった。授業者を知らずに授業に意見できるのだろうか、知らない人に授業を観られることにどんな意味があるのだろうか、と聞いた次第だ。

これを敷衍すれば、授業とは授業者の人格を離れた行為ではありえない、その人となりと合わさった行為として行われるのであって、この点を捨象して、純粋な技術の行使として授業を捉えることはできない、と導ける。

だから、授業を観たあとに出されるコメントは、指導主事ですら、ほとんどが褒め言葉に終始する。「子供たちと先生とのいい関係が分かる授業でした」「これまでの先生の努力がうかがわれる時間でした」と。なぜなら、授業を批判することは授業者への人格攻撃になりうるから、そんな危ないことを多くの人は敢えてしないのだ。

さて、タンデム(2人組)で授業改善に臨む際に、とても重要となるのが、授業を観る際の診断能力である。改めて考えてみよう。授業を観ると何かに気づき、気になり、それについて評価して伝えたくなるが、授業者の、あるいは生徒のある振る舞いや様子を、なぜ望ましいと、あるいは否定的に捉えたのだろうか。またその根拠は何だろうか。

こんな例がある。公開授業を観たある参会者が「あの生徒は授業中、ずっと机に突っ伏していたが、なぜ起こさなかったのか」と発言した。けれど、この生徒は不登校傾向で、学校に来れただけで、この日はいわば上出来だったのだ。もちろんそれを参会者は知らず、授業者も伝えなかった。この例に限らず、教室の状況を知らないままに授業が論じられること、これが広く公開される授業の大きな問題点だろう。

また先の参会者のように、授業を観る側がどうしても帯びてしまう歪みや偏り(バイアス)にも目を向ける必要がある。ドイツの「エビデンスにもとづく授業診断とその開発方法」では、授業者・観察者・生徒のアンケートにより、全体の傾向だけでなく三者のずれを取り上げる。たとえば、生徒が肯定的だった項目に観察者の評価が厳しかった場合、それは妥当なのか、いかに判断されたかを観察者が問い直す。授業を観る自分のありようが課題でもあることを知るのだ。

授業の診断能力という視点を得られれば、授業を見せる、観る、話し合うのは授業者に寄与するだけでなく、授業を観る側の課題をも引き起こす。授業を研究するのは誰のためか、こんな基本的な問いもドイツの例から学ぶことができる。

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