【連載】「ライブとしての授業」を研究する やりがいのある校内研究のススメ 7

京都教育大学教授 榊原 禎宏

よりよいパフォーマンスを

授業の性格はどんなものか、授業改善にはどんな着眼が大切かを、ドイツでの試みの紹介を含めて考えてきた。これらから、授業を「いつでも、どこでも、誰でも」できる行為と見る、つまりよい授業とは普遍的、再現的であるべきで、そのための秘密を探るのが授業研究との捉え方はかなり的外れだと分かる。

授業はすぐれて人格的な行為で、しかも当事者全てが授業の目標に向かっている訳ではない。重要なメディアである各教員の声は、大きさ、高さ、長さ、抑揚、沈黙とさまざまで、授業者として整えるのは不可能。これに表情や動作が重なり、その瞬間の心象風景を映し出す。かくして授業という活動の入力条件を制御できないのは、同じような授業を作り出す上で基本的な欠陥である。これは児童生徒についても同様だ。個々の授業への態度をコントロールできないのだ。だから「やらせ」授業が起こりうる。

これらを教員は経験的に知っている。にもかかわらず、仮説―検証や実証授業といった言葉を用いて自然科学かのように授業を捉えようとするから、授業を見せる段になるとみな嘘つきになる。見られるのを前提にしないゆえの不幸である。見ている人がいてもいなくても同じことが起こる自然現象(観察者は星の動きに影響しない)と、人間の関わり合いが作り出す授業とは大きく異なるのに、なぜか自然科学的に扱おうとする無茶が、教員、特に研究主任を苦しめている。

ある指導主事は「研究主任だったときに辛かったのは、自分がやりたくないことを、さあやりましょうと同僚に言わなければならなかったことだ」と回想したけれど、この不幸を断ち切るためには、授業の捉え方を変えなければならない。それが、見られるのを前提にした授業研究である。

名曲は同じ作品であるのに、演奏のありようは指揮者、オーケストラ、観客、場によって多様である。同じことは二度と起こらず、むしろそれが楽しみですらある。舞台では素晴らしい時間を観客に提供できるようにと演奏に励む。観客が透明人間のように扱われることはない。観客に見てもらうため、聴いてもらうために演じるのである。

授業はこの構図に似ている。同じ単元であっても授業者や児童生徒の様子、その日の天気までが授業に影響する中で、よりよいパフォーマンスが発揮されるように場を作り出すのに意味がある。一回きりの作品だが、だからこそ貴重である。そこで再現性や法則性が問われることはない。事後の協議も規則性を求めるのではなく、いかにその場を受け止めたかを感想として述べるに留まる。

手垢のついた「授業研究」からいかに脱出できるか。求められるのは、私たちの小さな勇気である。

(おわり)

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