校長のパフォーマンス(78)戦争の記憶・1945年8月

eye-catch_1024-768_takashina-performance教育創造研究センター所長 髙階玲治

毎年、終戦記念日には当時の映像がテレビで放映される。今年も8月14日にNHKスペシャル番組『知られざる地上戦』があった。なぜ、終戦後も戦闘が続いたのか、という樺太の悲劇の映像である。

1945年8月20日、樺太の西海岸の真岡(現ホルムスク)はソ連艦隊による艦砲射撃によって3分の2が焼かれた。テレビで放映された悲劇が起きたのである。

私は当時、国民(小)学校の5年生で真岡から北へ8キロほど離れた村に住んでいた。家は網元で、その朝食事をしていたら海の方から聞き慣れない船のエンジンの響きが聞こえてきた。何事だろうと2階に上がって窓からみると、濃霧が少しずつ晴れて軍艦らしきものが何隻も見えた。それが南下していくのである。

やがて真岡の方面から大砲の音が連続して響いてきた。父は「礼砲だろうさ」と平然としていたが、にわかに戸外が騒がしくなって村人が逃げてくる。見ると、南の方角から黒煙があがっていた。

私たちも北へ逃げ、さらに山中の道を支庁のある豊原を目指して歩いた。昼は飛行機の掃討で危険なので夜道をたどっていた。

4日ほどして帰宅命令が出た。家は無事だったが、日本への引き揚げはストップし、それから2年間ソ連領に留まることになった。

私は幼いながら疑問を感じていた。なぜ、ソ連は自国の領土になる町を砲撃したのか。しかも、戦争は終わっていたはずなのに、という疑問である。

さらに、学校の仲間と一緒になったとき、校長が軍艦をみて「日本軍が助けにきてくれた」と小躍りしたというのを聞いた。

私は後年、時に思い出すとき「人間は間違える存在ではないか」と思うようになった。

ただ、ソ連が真岡を艦砲射撃したのは、上陸用舟艇が現われたとき、日本の警官がそれに向けて発砲したために、抵抗を怖れたソ連軍が砲撃したと聞いた。当時、真岡には日本の軍隊はいなかった。その後、海岸に民間人の死体が流れつくのを何人もみた。

実は今回のテレビを見て愕然とした。札幌の管区司令部が8月16日に樺太の部隊に「樺太を死守せよ」という命令を出していたのである。ソ連は当時、北海道の半分を割譲せよ、という要求をしていて、もしかして北海道にソ連軍が上陸するのではないか、と札幌の司令部は怖れたためだという。

結果として樺太の各地で戦闘が起き、多くの町が空襲された。それが7日間続き、5千人が亡くなったという。

私は2年後、引揚船に乗って真岡から出港したが、町は少しも復興していなかった。

当時から続く愚かな判断や行為を考えるとき、人間そのものに潜む過ちにどう向き合うべきか、暗い気持ちになるばかりである。