変容する生徒指導―模索する学校現場―(5)教員の思考停止をもたらすゼロトレランス

修正_eye-catch_yoshida弘前大学准教授 吉田 美穂

前回は、生徒指導のシステムと、個々の生徒のケアを両立させた高校の特別指導の事例をみた。家庭謹慎、別室指導、観察指導など「事実行為としての懲戒」も含めた特別指導の在り方について、改めて考えてみたい。

特別指導の運用に当たり重要な観点の一つが、公平性である。同じ行為なのに謹慎日数が違えば、多くの生徒や保護者は不公平感を持つ。刑事裁判なら、被告人の事情は公の場で確認され、情状酌量で刑が軽くなることもあるが、教育現場では行為に至った個々の生徒の事情を公にはできない。文科省は「指導の透明性・公平性を確保し、学校全体としての一貫した指導を進める観点から、生徒への懲戒に関する内容及び運用に関する基準について、あらかじめ明確化し、これを生徒や保護者等に周知すること」を学校に求めている。

もう一つ重要な視点がある。学校の特別指導は、成長途上の生徒に対する教育的行為だということだ。生徒は一人一人違う。内面や置かれた環境を把握した上での対応が求められる。前回のように、背景に本人にはどうしようもない家庭の問題が潜んでいる場合もあれば、本人の特性から同じ指導内容でも精神的に追い詰められてしまう生徒もいる。どうすればその生徒が問題行為を繰り返さずに成長していけるか。公平性に配慮しつつも、個別の教育的配慮が不可欠だ。この視点が抜け落ちれば、学校は教育の場としての意味を失い、思考停止に陥ってしまう。

寛容さと現場の裁量を徹底排除するゼロトレランスの生徒指導で懸念されるのが、この点である。教員が生徒の行為を機械的に判定し、「ペナルティーを課すことが仕事」という感覚に陥ってしまえば、生徒の内面や背景について考える契機は失われる。違反の前提となるルールそのものや個々の生徒の事情を検討もせず、「組織的に」対応している学校現場はないだろうか。立ち止まって考えてほしい。落ち着いた学習環境を整えるという目的のために、地毛であっても黒髪でなければ登校させずに、生徒の学習権を奪うことは、果たして妥当だろうか。

組織的な生徒指導は必要だが、個々の教員を思考停止させるものであってはならない。一人一人の教員が対人専門職として、個々の生徒の背景や内面に目を向け、成長を支援することが望まれる。生徒指導提要の「自己存在感を与え」「共感的人間関係を育成し」「自己の可能性の開発を援助する」という視点は、特別指導にこそ、根底に据えられるべき原則であろう。指導が排除であってはならない。