矯正教育最前線~学校との連携を模索して(1)少年院における矯正教育の原点

eye-catch_1024-768_yokoyama_fin監修 國學院大學名誉教授 横山實

非行少年は、少年法の下で、保護観察という社会内処遇の他に、施設内処遇として法務省矯正局に属する少年院などで、矯正処遇を受けることがある。少年院における教科指導の一端は、今年2月5日の本紙「円卓」で紹介している。今回は連載という形で、矯正教育の現状を教育関係者に広く知っていただこうと、矯正職員の方々にも分担執筆を依頼した。

1922年に制定され、「愛の法律」と呼ばれた旧少年法では、矯正院の設置がうたわれていた。少年法制定に対しては、感化院(少年更生施設)関係者が反対運動を起こしていたが、その代表者である小河滋次郎は矯正院を監獄的施設と非難していた。そこで、監獄的施設というイメージを避けるために、日本で初めて設立された2つの矯正院、つまり多摩少年院と浪速少年院には、「少年院」という名称が付された。

多摩少年院初代院長の太田秀穂は、師範学校長の経験があった。彼は「矯正院の教育に携わる者は教育者でなければならない」という方針を取り、高い教養を身に付けた教職経験者などを職員として採用した。浪速少年院では、国立感化院武蔵野学院教諭の小川恂臧が院長になり、国立感化院や刑務所の勤務経験者が職員として採用されている。少年院は、発足当初から、人材面で教育施設に値するものであった。

当時の感化院は、留岡幸助の家庭学校をモデルにして、夫婦小舎制をとっていた。新設された二つの少年院は、それに倣って、寮生活による教育的処遇を実施した。

多摩少年院についてみると、考査期間後に入る普通寮は半開放的なもので、各室の交通は自由であった。生活指導や実科指導と並んで、教科指導も実施された。指導は初等部と中等部に分けて実施されたが、中等部の教科目は、修身、国語、歴史、地理、数学、理科、農業、工芸、図画(女子は「家事裁縫」)、音楽および体操であった。そして、英語を教えることもできるとしていた。

当時の庶民の子供は、尋常小学校の教育さえ満足に受けられなかったのだから、この教育レベルは、非常に高かったといえる。少年院には、在院者を熱心に教育するDNAが存在していることを、理解していただきたい。

第2次大戦直後には、少年法の適用年齢が20歳未満に引き上げられたこともあって、少年院は過剰拘禁の状態となり、満足な矯正教育を実施できなかった。しかし、現在では在院者は減少しており、少年院での矯正教育は成果を上げている。

本連載を読んで、その成果を理解していただければ幸いである。