これからの医療的ケア ―実態と課題から捉える(2) 学校における医療的ケアの歴史①

東京都立光明学園統括校長 田村 康二朗

まず、現在の学校における医療的ケアに至るまでの大まかな流れを述べたい。

■養護学校創始の時代

1932年、日本で最初の肢体不自由教育を行う学校が東京都港区南麻布に開校した。東京都立光明学園の前身である「東京市立光明学校」だ。その後、世田谷区松原に移転した。戦前、戦時下の疎開、戦後と激動の時代の中で、全国唯一の肢体不自由公立校として、教育を蓄積した。

1957年に養護学校に移行し、専門教育を継続した。この間の就学者の大多数は、医療的ケアを必要としない運動機能障害を有する肢体不自由児童生徒であった。当時は養護学校(現在の特別支援学校)の数も少なく、希望者が全員就学できたわけではなかった。

開校時の授業風景
■養護学校希望者全員就学の時代

1974年、東京都教育委員会は、国に先駆け「養護学校希望者全員入学」に踏み切った。障害が重くとも、医療的なケアの有無にかかわらず、児童生徒が希望すれば就学猶予・就学免除とせずに、肢体不自由や知的障害の養護学校に就学できるようにした。学校に通ったり、自宅や病院に教員が訪問したりして、授業を受けられるようにした。

実質的に、学校教育を受ける権利を誰もが行使できるようになった。こうした動きを受けて、6年後の1979年には、国として全員就学制度を実現した。

当時、医療的行為は「医療法」上の「医行為」であったことから、医師などが行っていた。校内の教職員には「医療的ケア」という名称や内容の理解はほとんど進んでいなかった。

■保護者による実施の時代

その後、医療の大幅な進歩もあり、超低体重児として生まれた子供や重度障害の子供が就学期を迎え、医療的なケアを必要とする子供が増えつつあった。こうした子供を養護学校がどのようにして受け入れ、対応すればよいのかが課題となっていた。

当時は医療的ケアの必要な児童生徒が学校で教育を受けるには、保護者の付き添いが条件だった。登下校に付き添った保護者が、日中も警備員室などに常時待機することが大前提だった。学校教育は、保護者の熱意や努力と、大きな犠牲で成り立っていた。

こうした状況下、高等部の生徒が卒業を迎えるときには、「12年間学校に付き添って通い、待機し続けた保護者」を慰労するため、各学級で担任教員から「親向けの感謝状」を贈呈し、涙して受領する保護者の姿もしばしば見られた。養護学校の受け入れ拡大とともに顕在化した医療的ケアへの対応は、この後、学校教職員による医療的ケアの時代に移っていく。