ダークペダゴジー ― 教師をむしばむ負の指導法(4)ガスライティング

東京電機大学助教 山本 宏樹

文科省が把握する体罰被害の児童生徒の割合は、おおよそ千人に1人である。だが、連載第2回で紹介した生徒側の調査では、体罰を受けた経験がある生徒の割合は「軽くたたかれた」が6.3%、「強くたたかれた」は4.4%に上り、文科省との差は約50倍になっている。体罰はなぜこれほど隠蔽(いんぺい)されるのだろうか。

説明の一つとしてあり得るのは、報復や追放を恐れて告発を断念する「恐怖支配」が機能している点だ。被害者が誰かに相談しても告発につながりにくいとの指摘もある。

部活動での体罰被害経験者に「なぜ体罰を問題にしなかったのか」と尋ねると、「試合でミスをして皆に迷惑を掛けたので、殴られるのは当たり前だと思った」「長時間叱責(しっせき)されたり、レギュラーを外されたりするよりは、殴られた方が楽だった」「殴られる分、目をかけてもらっていた」など、体罰を合理化する理由を挙げることが多いのである。

体罰に限らず、ダークペダゴジーが機能する場で頻繁に見られるのは、特殊な価値観である。一般社会では、さまつなことが非常に重大な問題として扱われ、他方で暴力や暴言が非常にさまつであるかのように扱われるものである。

社会学では、恣意(しい)的な価値観を正当なものとして教え込むことを「象徴的暴力(シンボリック・バイオレンス)」と呼ぶ。「試合でミスをしたら殴られて当たり前」「殴ることは愛の証し」というのは、「象徴的暴力」の一種である。心理的支配を通じて身体的暴力を教育に用いることが解禁されているのである。

心理的支配を可能にする方法の一つに挙げられるのが「ガスライティング」という手法である。ガスライティングは、被害者の正常な常識を加害者の異常な「常識」で上書きする心理的支配法だ。名称の由来は、上記の内容を描いた往年のサスペンス映画「ガス燈(とう)」のタイトルから来ている。

例えば、体罰教師は、殴る時、その妥当性を切々と訴え「私もできれば殴りたくはない」「殴られるより殴る方が痛い」などと悲嘆に暮れながら殴ることがある。このご時世にあえて体罰を振るうことで「捨て身の献身」を演出することもある。

時には、教師が生徒の失敗を予見しながら予防的対応を取らなかったり、あえて失敗したりするよう仕組む。その上で、「だから言っただろう」などと言って指導の好機にする場合もある。

その結果、子供が「自分の判断は信用できない。先生の言うことが常に正しい」という心理的依存状態に陥れば、告発はますます困難になる。

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